「藤重一真」という人間に関してクラシック業界で知らない人間というものは早々ないだろう。コンクールに出ては嵐のように荒れ、そして周囲の心を根こそぎ奪っていく、まるで悪魔に愛されたようなヴァイオリンの音だとまで言われる。
そんな彼を筆頭にしたW6の説明をひと通り受けて、西野の何とも言えぬ顔をしている表情に納得がいった。
「みんなすごいらしいんだけど……生活態度がね」
「ああ……いやでも、昔からといえば昔からだから」
彼らの中等部からの姿を思い浮かべ、高校生活で重なった一年間を振り返ると、確かに派手だ。人の目を引く。個性そのものだ。
マルコやレオンが言っていた彼らと接することで分かる音。
確かに分かるような気がした。とは真逆にある彼らに接すれば、何か自分の悩みも解決するのではないか……そんな淡い希望的観測を彼女は抱いた。
だが、彼らとの接触を測るには現状とてつもなく無理難題でもある。
目の前には鍵のかけられた入り口。
そして横には「こらー!藤重くん、皆起きてー!」という強烈極まりないモーニングコール。
聞けば、西野は臨時採用教師として彼らの生活態度の改善を任されているらしい。学生時代の寮監を思い出し、しみじみと寮長や寮監に恵まれたいたのだと実感した。
は、ははあ、と見上げて見る。――彼らはうんともすんとも言わない。
塔の上に、誰かが一瞬だけ見えては瞳孔を開いた。瞬発力に長けているわけでもないし視力がいいわけでもないが、誰かがいることだけは分かる。
猛烈に赤い髪。ガタイのいい影。そこだけ確認できれば十分だ。誰かは分からないが、こちらの様子を伺っているような、そんな影の動きだった。
「せんせ、落ち着いて。ええと深呼吸深呼吸。家宝は寝て待てっていうし、先生はそこにいてよ」
「家宝じゃなくて果報ね!良い知らせね!」
「そーなの?」
どうやら彼女は突っ込みとスルーの力に長けているらしい。西野が少し下がると、は扉を叩く。まるでお手洗いの時のようにだ。
だが、勿論反応はない。
「うーん、先生、だめ、使用中みたい」
「え?! いやいやそうかもしれないけどでもそんなことで諦めないで!」
「でもなあ、出てきた瞬間に文句言われるのもなあ」
うーん、と言いながら、カリカリと扉を爪でひっかく。誰が来るかは分からないが、とりあえずポケットの中に入った飴玉を西野に包みごと差し出した。彼女はかれこれ15分ほどそうしていて今はもう喉がつかれているだろう。素直に受け取ってコロコロとなめている姿はコダヌキのようで愛らしく、よしよしと頭を撫でてやる。
そうすると「私のほうがお姉さんなんだよ」と笑われてしまった。
「せんせ、私2歳ぐらいしか変わらないよ?」
「ごめんね、つい児童館の子と接するような感じで話しちゃった……。さんみたいな子、いたなあ」
「私みたいな子ねえ」
それは手がかかって面倒くさそう。と、は苦笑してカリカリ、カリカリと指で扉を鳴らす。
がりがり、がりがり。こんこん。とんとん、がりがり。
ひたすら、無言で同じ行動を繰り返す。ドアノブを時々回して、再びノックをしようとすると……次の瞬間、いいかげんにしろよと叫び声とともに少年が飛び出してきた。
「お前どこの幽霊だ声もかけねえ無言でノックとひっかき音ばっかやりやがって舐めてんのか上等だがるるるるるるるっ!」
「うっわびっくりした」
「うるせええええええ!がるるるるるるるっ!」
噛み付かれそうな状態になり、指を隠した上で少年を見る。ふわふわの猫っ毛、三白眼。少しきつそうな表情をしているものの、顔の作りはいい。西野が「赤桐くん」と言ったので彼は赤桐瑛太なのだろう。おはよう、ともう一度挨拶をすると、流石に見慣れぬ人間だったのか彼は一気に落ち着いた。
「おいオンナァ!なんだこいつ!」
「人を指ささない!アヴニールの大学にいるさんだよ」
「なんだよ咎落ちかよ」
咎落ちは違う。絶対に違う。
やいのやいのと言い合う彼らを横目に再びドアをかりかりと鳴らす。扉はすでに開け放たれていたので「お邪魔します」と一声かけた上で中に入ると見た目から華やかな人間が何人か腰掛けていた。中央に座って不機嫌をむき出しにしている青年に対して、ああ、と小さくは声を上げる。
彼のことは言わずとして知っていた。
「こんにちは、藤重君」
「……お前か、変な亡霊を呼び起こしたのは」
「亡霊?」
何を言っているのかは分からないが、とりあえずカーペットの上に落ちた皿を避けながらじっと少年を見る。
彼はに尋ねる。お前は誰だ、と。は自分の名前とどうしてここにいるかを伝えてみるが――彼らの表情はあまり良くない。というよりも、藤重がひたすらに不機嫌だ。今にも血管が切れそうな怒り方である。
「この俺を態々起こし幽霊を呼び出しポルターガイストを起こすとはいい度胸だな……」
彼は苦々しく言うのだが、にはよくわからない。ポルターガイストなんてものは生憎と遭遇したことがないし、何より現代社会で幽霊だの何だのというものに関してはにとって無縁だ。信じるか信じていないかと聞かれれば分からない。お化け屋敷はいったことがあるが、だからといっているかどうかを常に考えているわけではない。
とりあえず、学校へ行くべきだと促すと「なぜお前のような愚民に指図されなければならない」と彼は言い放った。
愚民。おろかで無知な民衆。まさかこのご時世、社会でこのような単語を聞く羽目になるとは思っておらず……は狼狽した。何を言っているのだ、この青年。いや、藤重一真のことは知っている。君臨する魔王子なのだということも知っている。
「ちょっと藤重くん、先輩に向かって愚民とか言わない!」
「うるさいぞ下僕!ギルティだ!!」
「げ……下僕なんだ……」
「違うから!」
ぎゃあぎゃあと中心で彼らが騒ぎ出す。金髪碧眼の少年は付き合ってられないとチェロケースを持って移動をしようとするので、思わず挨拶をかわせばぶっきらぼうなりに返してくれた。
「つーかテメェ何無視してやがるいい度胸だなああ?いっぺんどころか四回くらい死んどくかテメェぶっ殺す」
「いっぺん死んだら世界が一変するな」
噛み付いてきた少年の横で、先ほどの金髪――望月玲央が一声かける。……‥あまりに寒いギャグだ。思わず背筋が凍る。の目には幻覚か雪が吹雪いて見えた。
ペンギンがいつの間にか出てくるし、カオルと名乗った青年が飲んでいた紅茶が凍りついているし、えらい騒ぎになっている。幻覚ではなかったらしい。オロオロと彼らを見ていると……なあ、と後ろから声をかけられる。
「あんた、ヴァイオリニストか?」
「え」
「いやそれ、ヴァイオリンだろ?」
指差されたケースに、黙って頷き返すと、少年はにこりと笑った。曰く、彼もヴァイオリンを弾くらしい。朝比奈司。人当たりの良い少年はの名前を聞くと笑顔を浮かべて何を弾くのかどういうのが好きかのかとくるくる回って尋ねる。
「いいから学校いきなさーーい!」
西野の声がする。藤重とのやり取りがまだ続いていたようだ。激昂に釣られるように彼らはわらわらと出て行く。一人ひとりの名前を確認しながらエントランスをぐるりと見渡す。この寮は自分がいた寮とは全く違う。金のかかっている建物そのものを見つつ、割れた食器を拾い集める。西野は彼らを見送った後にの名前を呼ぶ。学校へ行け、とにも彼女は言った。
「学校っていっても、大学とここからじゃ遠いし……」
この学校に飛び級している連中がいるとしても、は大学生である。そして教員免許があり教師として雇用されているわけではない。
そんな自分が何をどうして授業を受けろというのだろうか。受ける内容も決まっていないのに。義務教育でもない以上、専攻授業を共に受けることは有意義ではあるが……。一方で高校課程の必要授業は彼女にとっては関係がない。
レオンいわく、彼女は今「休学中」に近い形をとっている。
必要な単位は通信教育課程のような形で高校で取っている。音大に名を連ねた時点で公欠として海外にいっても出席日数が足りない人間もザラに居る。
やれることをとりあえずはやる。それぐらいしか彼女の今の選択肢は残っていなかった。
「…見学しながら先生に聞いてくるね」
じゃあ、また。
そう言い残しては寮を出る。広い庭。広い廊下。広い学校。広い敷地。すべてが少しだけ懐かしく感じられた。
廊下を歩きながら響く音楽に指が勝手にスタッカートに動く。この音は誰の音か。……伸びやかな音だ。
はそうして、練習室へと足を運んだ。
どのくらい弾いていたのかはわからないが、ひたすらに彼女はヴァイオリンを弾いていた。利用時間の55分、調弦以外はひたすらに弓を持ち、己の音と向き合う。
楽譜通りに音をなぞり、解釈を自らの中で取り入れたものを弾く。
けれどそれは、どこにでもある、ありふれた音であった。伸びやかでも背筋が凍るわけでも胸踊るわけでもなく、安定感がある音。
…やがて彼女は、息をついた。
「つまらんな」
「うああ!?えええびっくりした!」
どこからか聞こえた声。何事かと振り返れば練習室の扉脇に先ほどの少年の姿がある。藤重一真、と彼は名乗っていた。彼の双眼はじっとを見ている。は唐突すぎる出来事に頭がついてこなかった。
ただ、腕を組み仏頂面をしている男に気圧され、どうしたものかと視線を泳がせる。
「何だあの音は」
「…なんだと言われても」
「それがお前の音か。華がない。ギルティ。面白みもない凡骨な音だな」
彼の評価は手厳しい。事実だ。そしてそのことを突きつけられたは頷くしか無い。
それは実際に周囲が彼女に与える評価と全く同じものだ。の音は「しか出せない音」ではない。地味で、協調性と安定感しかない音だ。そうも自分に対して評価を下している。それが益々この男には気に喰わないのだろう。凡骨だと言う彼の言葉には刺しかない。
「お前のような凡骨が卒業生でかつ、プロだと?つまらんな」
『は自分の音を突き詰めたいのか、オーケストラで支えるような音を作りたいのか、どっち?』
は以前、マルコが彼女に問うた言葉を思い出す。彼は個性が消えた凡骨のような音を聞いた上で尋ねた。
……今でもたまに疑問になる。彼は、彼女に何が言いたかったのだろうか。
そして、今。眼の前に居るこの青年はに何を苛立っているのか。にはわからない。
個性がある、感情を最大限に引き出しているという「悪魔のヴァイオリニスト」に、自分のような普遍的で凡骨のヴァイオリニストが何を苛立たせているのか。全くをもってわからない。
悪魔のヴァイオリニストの音を聞いたのは彼が1年生の時で、もう2年前になる。今でも覚えているびりびりと背筋を雷撃が走るような感覚。鷲掴みにされる感覚。うまい、と。ただ一言うまいと彼女は思った。
明るい曲ではなかったが重々しいソルヴェイグの歌は彼が弾きこなすと音一つでも打ち震えた。
それよりずっと前、コンクールで対峙したときは「ああ勝てないな」と純粋に実力の差を感じたもので、アヴニール音楽院の中で燻っていた周囲が彼のことを嫉妬と羨望を抱く中、は彼の音を何度も繰り返し聞いていた。もちろん、そんなことは今になって振り返れば自虐ネタの何者でもないのだと思うのだが。
彼女の考えなど物ともせず、藤重は言葉を連ねる。
「俺はお前の音が嫌いだ」
すっぱりと斬りつけるような言葉に、思いの外胸が傷む。
どう表情を作ったらいいのかわからない。だが、どうにか平常心を保たなければ。揺れる瞳を何度も瞬かせ、は彼を見た。
「――私は、藤重君みたいな忘れられない音楽が好きだよ」
自分にはない音だから。そう言いかけた言葉を飲み込んで、彼を見つめる。藤重は驚いてはいたが――歪な笑いを見せた。彼は性格が悪い、と周囲に言われている。曰く、「ドS」。確かにそのとおりだ。
だが、その通りの中で――あまり、には関係がない。
メトロノームの音が響く中で、彼らは暫くそうやって見据えあっていた。以降、彼の嫌がらせの対象者リストの中に、が追加され――彼女の怒涛の日々がゴングとともに始まったのである。
例えば、会う度に「下手だな」「普通だな」「面白くないな」など。
頬を引っ張られる西野の横でぺちんと額に指を押さえつけられる。物理的Sなのか精神的Sなのか良く分からない対応だ。
お気に入りに登録された、のかどうかは一切分からないが……彼女を面白くいじるのには、彼にとっては楽しいということだけはは把握した。
「下僕じゃないだけましなの、かなあ……頑張れ、先生。がんばれ……」
「ぶつぶつ五月蝿いぞ愚民凡骨!」
「愚民凡骨ってなんか四字熟語みたいになってるけど全然違うからね!? 藤重くん聞いてる?!」
「あー!うるさい、うるさい!下僕、ギルティだ!まとめて貴様らギルティだ!」
「ええー……」
ついでに言えば……今、この瞬間からニックネームが「凡骨」になった出来事は、またたく間にNが知り、周囲が知り、西野が知り――女子大生にして初めて不名誉すぎるニックネームを彼女は手に入れた。
後日になり西野優那が「凡骨凡骨言わない!」と雷を落とした藤重一真はどこ吹く風で、もまた彼を見上げながら自分の音を相変わらず探し続けている。
「でも、言ってることは事実なんだよねえ……」
地味で協調性しかない。いじめられるにしても個性がないから存在感もないので相手にされない。
地味。普通。
面白くない。華がない。
並べてみてますます自分が落ち込むだけだ。
ヴァイオリンの音に身を委ねてみても、結局自分が「地味」だということを認識されるだけで陰鬱な気持ちになる。けれど彼女はヴァイオリンの調べを何度も何度も繰り返す。
「……おい、あんた」
「……あー、望月、くん」
授業中だけど、いいのかと聞けば彼は無反応だった。確か最近西野が笛を吹いて注意していると聞いたが……今は彼女は授業中のはずだ。多分、それで抜け出してきたのだろう。
まじまじと視線を向ければ「サボっている」という事実が少しばかり後ろめたいのだろう、彼は舌打ち1つと視線を逸らした。
「あんたこそ、授業はどうした」
「大学休学してるようなものだからね……こっちでとれる単位は取ってるけど」
「……わざわざ大学に進んでるのに何してんだ、あんた」
ごもっともである。
は特待生だ。高校も大学も、学費は半額程度で免除されている。奨学金制度に感謝しているが―――大学を休学している今、来年それがどうなっているかは分からない。教師陣、主にL6は良くしてくれているが周囲の評価はガタ落ちであることぐらい彼女だってわかっている。
高校在学時から地味で何故特待生に選ばれているのかとすら言われていた自分からすれば、よく学校も見放さないものだ。
「……練習室来ると、大体あんたがいるな」
「……暇な大学生だからね」
「確かにな」
小さく、望月玲央は微笑う。暇な大学生。全くを持ってを表現するのに相応しい。その後薄ら寒いではなく極寒のごとく言い放ったダジャレ(彼いわくギャグ)に凍りついたが、彼は随分満足していたので、よしとしよう。
「授業の出席数が一定以下だと、確か練習室の3ヶ月貸出してもらえなくなるんじゃなかったっけ……」
「は!?初耳だぞそんなの」
「前にレオン先生が導入するって……」
言い残すよりも前に、彼はあっという間にいなくなった。
彼にとっての練習室での練習というのはよほど大事なのだろう。その気持はにもよく分かる。
…………だが、言いそびれていたのだが。
「検討するって、この前言ってたよ、って言おうと思ったのに」
予定は未定。そんな言葉が続くはずだった。ぴーぴっぴ!と吹き鳴らされるホイッスルの音には苦笑しつつ……自分の練習を再開すべく次のコマ分の練習室の貸出表にサインを書き連ねた。確か次の時間、マルコは何もなかったはずだから個人レッスンを頼んでみるのも手かもしれない。
遠く響いたホイッスルの音を他所に彼女は窓の向こうへと視線をなげた。
大学生の奇妙な日常は続く。
(ben marcato:よく注意して)