藤重一真に「音楽が気に食わない」と言われてから早数日。
はいつもと変わらない日々を過ごしていた。
西野優那が毎朝彼らW6を起こしにいくのにひょこひょこと着いていき、彼女を応援する。手伝いなさいと言われていない手前、「彼らと接することで何かに気づける」のではないかと指摘されたことを忠実に守ろうとしていた。たまに扉をノックすると怒涛の勢いでカエレ!と怒鳴られている。
数日の間の変化といえば、灰羽やジャンとの接触は無事に成功し、彼らには顔・名前・専攻くらいは認識された。
高校の後輩といえども彼らは随分手一筋縄ではいかない人間らしく、にこやかな笑顔に思わず背筋が凍りついたのはの心のうちに秘めておこう。
ついでに、朝比奈司に関しては音楽面でも非常に友好的な面を示してくれている。同じヴァイオリン専攻であるためか、彼はすんなりとに心を開いたし、彼女もまた彼に心を開いている。奇妙な友情は確実に成立しており、最近では自分の音を聞いて欲しいと誘ってくれるほどに進歩した。の音を聞いたこともないのに、彼女に友好的である。
……同じヴァイオリニストなのにこうも違うのか、と思わせるほどには彼は随分と優しい。
「うるさいぞ下僕!愚民!」
「愚民追加なの?!」
「ギルティ!お前など愚民、ないしは凡骨で十分だ」
噛み付く勢いでまくし立てられ、そしてとばっちりを喰らう。それが現状藤重一真との関係だった。
彼の親友望月玲央は「めんどくせー」と呆れていたが、度々練習室で遭遇かつ時々が練習室使用権を譲渡しているので交友関係はそこそこだ。とりあえず、顔を合わせれば挨拶はするようになってくれたので良し。
赤桐瑛太に関しては――とりあえず、彼のターゲットは目下この西野優那なので大丈夫だ。今のところ。というか、西野優那が今彼で手を焼いているのにが出るべきではない、と彼女は判断している。
目の前で口論という名の朝の挨拶をかわす彼らには苦笑した。
「先生は下僕に玩具に大変だね……」
「うう、ありがとう……」
「でも民草<下僕だと思うから元気だしてね」
「民草だと別に普通だからね?!っていうかなにげに自分を卑下しない!」
藤重の言う「愚民」とは明らかに違うポイントをぼけたところあっさりと突っ込みを入れられてしまった。
扉の前で二人で顔を合わせ、顔を上げた。……相変わらず扉は閉まっている。
「うーん……」
「なんか弾こうか?」
「ホント?でもいいのかな」
「天野の岩戸作戦ってことで」
天野さんって誰。鋭いツッコミがまたも飛び交った。それにしたって西野優那のツッコミは今日も冴えている。伊達に児童館で勤務していただけのことは在る。
……だが、ヴァイオリンを持った時一瞬の顔が曇る。
言ってみたはものの、そもそも自分の音に彼らが扉を開けてくれるとは思いづらい。むしろ益々閉じるか「やかましい」と言ってくれるかどちらかだ。どちらかといえば前者か。
手に持った弓をゆっくりと弾く。明るい音だ。
そこからの流れは勢いで、彼女は感情を委ねながら弾く。けれど途中で振りきれないように落ち着かせ、最後の音をひとつひとつ丁寧に、丁寧に弾く。教科書通りの音に優那は目をまん丸くさせた。
前奏曲として相応しい曲。決して難易度は高くない。だが、その分だけ個性が出る曲だというのにの音はひたすらに「地味」で「存在感がない」音だ。
……途中で音がふたつに割れる。どこから流れてくるのかと思えば、そこには見覚えのある姿があった。
派手な金髪、派手なストール。その佇まいすべてが28歳とは全く思わせてくれない。
あっという間に彼の気持ちがあふれだし、それ引っ張られるようにしての音はユニゾンからハーモニー、セカンドヴァイオリンへと変わっていく。
は驚きながら―――静かに目を閉じ、彼の伸びやかな音を追いかける。
くるりと音を抑え、目配せで主旋律を譲る。その瞬間に変わらない音が染まっていく。
形を変えていく。ゆったりと、穏やかに、不変的なものが形をかえて色鮮やかに。
それはもう先ほどの彼女の音とは明確なほどに、形を変えていた。
……そこで、音が途絶えた。3分程度の解釈・編曲を加えたものだったのだからというのもある。
が顔を上げると彼はえへら、とのんきに笑顔を浮かべた。
「もーマドモアゼル!来ないから迎えにきちゃったよ。しかも面白いことしてるし」
「……先生」
「ブラーヴォ、ブラーヴォ!」
ぱちぱちぱち、と素直に賞賛の拍手を送る西野優那に、は苦く笑った。だが、扉の主は動かない。
彼女の考えを他所に優那はが突然の音にも対応できたことを賞賛し、マルコが「うちのこたちチョーーデキが良いように育てたからね!」とにっこにこと笑顔を作っている。
……が音で悩んでいることはマルコも知っている。知った上で彼はデュオを選んだ。それがいいのか悪いのかは分からない。彼女はソリストとしては凡庸で、ありきたりだ。プロの個性とは言い切れないし、未発達。だがデュオやオーケストラで【他のヴァイオリン】がいればはえる。それに彼女が満足しているのかどうか、は別問題だが……。
「…………うーん、無反応」
「騒音への反応してくれないかなあと思ったけど、ダメだねやっぱり」
そんな折だ。
扉が勝手に開いたのである。うぇ、と鈍い声を上げた西野につられ、彼女は目を丸くした。
誰もいない中で招き入れようとしている扉。恐怖感を覚えない訳がなかった。
「…………入っていいのかな」
「うん、いいと思う」
「じゃあ、みーんなでいこう」
ポップコーンでも食べながら。何処から出したかわからないポップコーンを手慣れた流れでは受け取り、口に放り込む。
優那が一歩踏み出すと……階段から藤重一真が顔を出した。
「今の音はなんだ」
「……おはよう、藤重くん」
「おい凡骨、お前の音か」
西野の横を悠然と通り、彼は彼女の前に立つ。
凡骨、と呼ばれは困惑しながら小さく頷いた。……しばし、藤重は考えたあとにノットギルティ、と呟いた。少し上機嫌に見えるのは、多分の見間違いだろう。
「まあ、いいだろう」
何がどういいのかは、にはわからない。
だが、藤重一真はやはり上機嫌だ。目を白黒させていると「だがやはりお前は凡骨だ」と一言余計に突き刺さることを言う。
彼に次いで出てきた灰羽カオルは思い出したようにブラーヴォと薄い拍手を送った。彼と一緒に居たジャンは同じようにブラーヴォと笑顔を浮かべている。ブラーヴォ、ブラーヴォ。……困惑を隠せないを他所に、藤重は鼻で微笑う。
「……他人にすがらないと弾けない音楽なんて、嘆かわしいことだな」
「あー……そうだね」
言い返せなかった。事実そうだから。視線をそらすことなく、じっとこらえ、そして頷いたに忌々しく一真は舌打ちを一つ落とした。
馬鹿正直な凡骨なりの反骨精神といったところだろうか。
渦巻いている彼女の空気をじっと見据えると、は苦笑を込めながら彼を見上げる。
温冷の差は明確。火と水、水と油。醸しだす空気はあまりイイものとは言えなかった……が。
「ほら、そろそろ授業にいってね」
「…………おい下僕、空気を読め」
全くを持って空気を読まない西野優那の笑顔に、毒気を抜かれた。その状況をマルコ・ラグランジュは楽しそうに笑っている。
その横で、ジャンと灰羽カオルは口元を少しだけゆるめている。彼らは珍しく、早々にに「名前でいいよ」とけろりと笑っていった稀有な人間だ。変わり者、そう認識しているのでこの笑顔にも他意がないことも、はわかっている。
一真はため息を付き、至極面倒くさそうに鞄をNから受け取った。
……今日はどうやら授業に行くらしい。扉から一歩前へ。を横切った時、彼はその碧眼を彼女に向ける。切れ長な瞳は異様なほど彼女をいぬいている。
蛇に睨まれた蛙だと、朝比奈司は呟いてみる。食われろ食われろ、とあざ笑う赤桐の声。
…………少なからず、が「ここにいる」ということを認めてくれたと取っていいのだろうか。困惑を隠せずに視線を漂わせていると西野優那が「ほら、みんな行きましょうね!」と笛を鳴らす。
どうやらホイッスルを鳴らす方法は、望月玲央だけではなくW6全員に適応されたらしい。
「はい、じゃーも行こうね?」
「えっ」
「もーすぐ月末審査なんだから筆記の勉強しないと~ほらほら、ジルが暇してるって言ってたから」
「ちょ、ちょっとせんせい私これから譜読みしないと……痛い痛い痛い鞄引っ張らないで先生!」
ぐいぐいとフェードアウトしていくを見送りながら、優那は逃げようとしているW6をホイッスルでぴっぴっぴーと追いかけて、彼らを教室へと追いやる。
おやおやおや、とひっそりとNが笑ったのを誰一人として知らない。
「……先生、なんでデュオ助けてくれたの」
「んー? だって、楽しそうだったからねえ。それに、カズマたちに認められて良かったねー」
「……そーだね」
午後はオケの練習だって言ってたから午前中はみっちり座学やろうかあ。
にこにこと笑うマルコに「座学……」と何とも言えぬ顔をしたを彼はポップコーン食べながら頑張ろうねえ、と笑った。
「マルコせんせ、朝比奈くんは良いの?」
「ツカサ?ツカサのタイミングとは違うからちょうどイイんだよ~暇だし」
暇が絶対本音だ。
心の底の本音をぼやくとまさか、あはは、とマルコの笑い声が妙にこだました。
彼女が一足早く月末試験を受け終わった後、よろよろと教室をが出ると、同じように月末考査を受ける司とたまたま顔を合わせた。
コーラフロートを飲んでいるあたりは妙にマルコと似ているように思える。視線に気づいたのか司は彼女へ視線を投げて「あ」と声を上げにこにこと笑顔を浮かべて一気に近づく。
自称忍者なだけあって(西野曰く、彼は本物の忍者らしい)目で追いつかない速さだ。
「終わったのか!お疲れ~どうだった?」
「ああ、うん。お疲れ様。んー、まぁ、そこそこ……かなあ。そっちも頑張ってね」
「おう!ちゃちゃっと終わらせて任務に戻るぜ!」
彼は任務がよほど好きらしい。見送った後、あ、とは声を上げる。あっという間に見えなくなったはずの司の後ろ姿が直ぐにまた近くなる。は片手に持っていた楽譜を抱え直す。
司は大型犬のように首をかしげるが、片耳を抑えているのは、記憶を消さないためなのだろうか。
「何だぁ?」
「あー、ええと、名前で今呼んでたから」
「え?あー! ほら、マルオも名前で呼んでるからついさ!」
ダメだったか、ごめん、と慌てて頭を下げた司にぶんぶんと首を横には返す。
「名前で呼んでたの、マルコせんせぐらいだったから、うん、びっくりして」
「そーだよなぁ、マルオ、基本的に生徒も名前呼びだもんな!や、でも嫌ならおいらちゃんとやめるからな!」
「…………や、いやってわけでは」
「あー、じゃあえーと、おいらのことも名前で呼んでくれよ!そうしたら一緒じゃん!」
の困惑を他所に、司は満足して「じゃあおいらテストあるから」と今度こそ去っていく。
取り残されたは「ええー……」と呆然と立ち尽くす。他の教師が立ち尽くしているを怪訝な表情で見送っていく。
…………ぴぴぴぴ、と言うスマホのアラームに現実で引き戻され、手元にある譜読みが全く進んでいないことに頭を抱えるはめになった。
少しずつ、W6との交流していく彼女はその度に自分の音を考える。
彼女のソロは相変わらず華はないが……それでも、彼女の音を「私は好きだ」と言ってくれる存在が一人増え、ホンの少しずつ、日々が変わっていくのを彼女は肌で感じ始めた。
それはヒロイックシンフォニーが始まりゆく、序章。