Allegro Cantabile!

00.始まりの音はファンファーレのように騒がしく!


「……はあ」

 どうしたらいいものか、とは陰鬱な溜息をついた。
 4月、春。新入生を迎えた大学敷地内で行き交う人間たちは楽しそうに笑みを浮かべている。
 敷地内を出来るだけはやく通り過ぎていく。あまり見ていて気持ちがいいものだとは思わなかったからだ。
 ……そうして、自然と足は町中へ降り、彼女は橋に差し掛かる。
 足音は小刻みにリズムを放ち、春の暖かさから日差しもぽかぽかしている。桜はまだもう少し掛かりそうだ。田舎は東京の桜前線に比べてゆっくりらしい。

「……はあ」

 それでも、彼女の気持ちは晴れることがない。手すりに寄りかかり、溜息をつく。
 片手に持ったヴァイオリンケースは彼女を益々陰鬱な気持ちにさせている。
 は立ち止まってから懇々と考え始める。
 何をすべきか。どうすべきか。どうあるべきか。
 ……彼女の答えはまだ出てこない。

「こんなものがあるから」

 だから私は悩んでる。
 毒を吐き、彼女はヴァイオリンケースを、川の前に向けた。……そこから、大きく持ち上げてみる。ずしり、とやはり重たい。…そして、やはり、自分には捨てられない。彼女は手を引っ込め、頭を振る。どうしようもない。どうしたらいいのかも分からなかった。

 その時だった。やめなさい、と誰かの声が響き勢い良くタックルされる。

「ぐぇ!」
「大事なものなんでしょうなんでそういうことをしようとするの!見ず知らずの人だけどダメよだめ!」

 落ちかけたそのケースを必至に支えてはバランスを取る。女性は勢い良く彼女を叱った。どうやら彼女は自分を自殺未遂者だと思い込んでいるらしい。
 ……橋の上、1人。周囲は希望に満ち溢れ、自分だけネガティヴ。そこまで羅列してみて、なるほど確かに。は苦笑した。

「あの、自殺は、しませんよ?」
「えっ」
「……ちょっと、いろいろありまして」

 女性は「あなた、アヴニールの学生さんよね」とに問う。小さくは頷き返した。この田舎にヴァイオリンケースを持って歩いている時点で、アヴニールの学生以外がいるわけがほぼない。彼女の推理は正しい。

「誰か知っている先生がいるなら、その先生に悩みを打ち明けてみるのもひとつの答えだと思うの」
「……先生」

 女性はハンカチを差し出してにこやかに笑顔を作る。今は私も先生だから、少しくらいなら話も聞けるよ、と。
 唐突すぎる、めまぐるしい出来事にぱちぱちと瞬きをすると女性は己の名前を言う。西野、という臨時教師は、ClassRの担任らしい。

「あの」

 脳裏をよぎった1人の教師の姿を手を伸ばすようにして、は彼女に尋ねた。

 マルコ・ラグランジュ、という先生にお会いしたいんですが、会いに行ってもいいでしょうか。



 しくった、とは心の底から後悔した。
 目の前にいる、ポップコーンをバケツカップに入れて頬張る男。一般常識を担当しているが同時にヴァイオリンの師事していた男だ。
 マルコ・ラグランジュ。ラグランジュ兄弟の兄だ。クラシック界の中でもとびきり華やかで話題性もある彼を目の前にして、は後悔している。
 彼はにとって高校時代の師である。ヴァイオリンの師匠は違えど、レッスンは彼から受けていたし、彼の生徒の一人であることは間違いない。
 だが。

「んもー!そんなにきれいなマドモアゼルになるとは思ってなかったよってばチョーカワイイ!元気してた?!ああもうカワイイなぁ」

 根本的な問題として、彼は軽い。まるでそのポップコーンのように。

「先生……元気そうだね……」
「チョー元気!も2年ぶりで女の人になっちゃってもう完全にマドモアゼルって感じ!!よしよし!」
「うわっ」

 ぽんぽんと頭を叩かれ次に髪をなでられる。スマートな行動に目を白黒させていると、彼はにこにこと笑っている。

 マルコ・ラグランジュ。彼は人の心を読む。その明るさと騒がしさですべてを隠しているが、実際は随分と思慮深い人間なのだろう。

「いやいや、そんな風に言ってもらえるなんて嬉しいねえ」
「あの、先生。ちょっと相談乗って欲しいんだけど」
「うん、いいよ。なんてったってオレはの『先生』だからね」

 ようやく、彼は真面目な顔をしてを椅子に座らせた。西野により出された茶を飲みながら、どう言ったものかとは考える。
 意を決するようにして彼に会いに来たはいいが、うまいことが言える予感は微塵足りともしない。
 視線を浮遊させながらぐるぐると考える。
 考えて、考えて、考えて、行き詰まる。それが3分間で2度あったというのに、マルコはじっと彼女の言葉を待ち、ポップコーンを食べる手も止めている。

「……あの」
「うん」
「……私、今、オーケストラに居て」
「知ってるよ~」

 学生やりながらって大変でしょう、えらいえらい。
 彼の言葉に、は小さく首を振った。多分彼は知っている。今「何」を考えて「どう」しようとしているのか。

「…先生、私どうしたらいいのか分からなくて」
「うーん、そうだねえ、学校、今日はサボり?」
「………………」

 学校が嫌いなわけではない。授業も、ソルフェージュも何もかも、音楽漬けになっていることも嫌いじゃない。
 ただ、今自分がいる場所がここでいいのかどうかがわからない。

「……華が欲しいんだよね?」
「……わかんない。けど、自分の音の良さがわからなくなって」

 縮こまったを、マルコはじいっとその色味の薄い瞳で見つめる。

の音は確かに、華やかなものとは違う。安定感のある、周りを支える音だよね」
「……うん」
「……じゃあさぁ、華やかな子たちと一緒にいればいーーじゃん!」

 え、と問い返すがマルコはもう居ない。
 は、と聞き返そうとすると扉が開かれる。ヴァイオリン専攻者が度々世話になるレオンがそこに居た。彼の威圧感から思わず立ち上がり頭を下げれば、彼は全く気にしていないのかこちらへやってきて、そしてを見下ろす。

「君はW6の担当になった西野先生について、彼らと接して見給え」
「は、え、え?いや大学あるし……」
「こちらで彼らと接し、課題プリントを提出、月末試験を受けることで大学への出席扱いにしよう」

 何を唐突に彼らは言い出しているのか。荒唐無稽すぎる出来事に目を白黒させるを横に、西野優那は困惑した顔を隠せずにいる。
 レオン曰く、彼女をサポートし、そしてW6の音を間近に聞いて君自身の音を考えればいい、らしい。
 ……には、そんな悠長な時間など残されていない。大学生活も2年目、そしてプロとしての生活もある。コンクールの用意もある。

 ……そこまで考えて、彼女はへの字に口を変えた。

「どうしてそこまで」
「君の音を買っている人間は、君が知らないだけで居るのだということだ」

 では、手続きは私がしておこう。授業と単位はセットになっているからきちんとコマにあった分の授業は受けるように。
 そう言い残し、レオンはさっさと去った。まるで旋風のような勢いに気圧され、困惑し、にこにこと笑顔を作っているマルコと――どういう顔をしたらいいのかわからない西野を目の前に、は狼狽え――そして、ええええ、と間抜け極まりない声をあげた。

 、19歳。音大2年、ヴァイオリニスト。所属、フィルハーモニー交響楽団。セカンドヴァイオリンが中心のヴァイオリニスト。アンサンブルでは常にセカンドヴァイオリンを勤め、安定した音に定評がある。
 順調で、凡庸な彼女に転機があるとしたら、きっとこの瞬間だ。
 強烈すぎる、鮮明な個性と向き合う前奏曲を――何とも言えぬ不安な気持ちを抱きながら、は西野を見上げる。西野は――ただただ、同じように、困惑した顔をしていた。
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