だが、その日、彼は夕焼けの向こうに陽炎のように揺れる物体を見たのだ。
それは人間で、それは見覚えのある人間でもある。彼女は此処に居ない人間であり、京都に残されているはずだ。初めて遭った時と全く同じ、洋装で朝日を背に揺れながらも立ち尽くしている。
「、じゃないか」
どうしてここに。
彼は自分が「羅刹」という人ではない異形の生き物となったことを忘れるくらいに大きな声を上げ、彼女へと近づいていく。だが、は彼を見ていない。ゆらゆらとただひたすらに揺れているだけだ。、と今一度彼は彼女の名を呼ぶ。
唐突に鳴り響いた奇怪音。坊主の読経の声。彼が手を伸ばした先に居たはするりと抜けて、彼女であったものは読経が文字となり散っていく。
「――っ、うわ、なんだ、これ!」
振り払っても振り払っても、彼の身体をまとわりつく。足元をぐるぐると巻きつかれ――それを拒むように蹴り飛ばしてみる。文字は一度離れるも、再び彼を襲ってくる。
「やめ、ろ!」
振り払っても、振り払ってもまとわりついてくる。周囲を見渡せばそこは全くを持って見知らぬ宵闇と朝もやの間のような場所であった。困惑を隠せず「ぐ」と声を上げ彼は脇差しに手をやる。…と、身体がふわりと突如として浮いた。
それから奇妙な浮遊感のまま、まるで自動に動く奇妙な床にでも座らされたかのように身体が動く。
……ふと、平助は誰からかわからないが、殺気を感じ取り身構えた。
その視線の先に一瞬だけ見えた金髪の仮面の男。
公家のような華やかな格好をしており、彼は見上げたまま平助を持ち上げて何かを言うと、彼の身体はするり、と身体が堕ちた。
「いてっ!」
「――奇妙なものを感じたと思えば、何だ、貴様は」
「はぁ?」
足元を掴んでいた奇妙な手や、文字はもうない。
眼の前にいる男は少し不機嫌なのか声をより低めて「つまらんものだ」と退屈そうに言った。
「……貴様が二人目だ」
「二人目?」
「だが、貴様は龍神の神子ではないな。……そのような神気はない」
「は? おいおい」
変な男だ。思わず身構えるが、男は全くと言っていいほど平助を見ておらず、虚空を見上げていた。真っ白に、真紅の紅葉が散りばめられている。男は言う。まがい物、と。その言い方はどこか以前遭遇した「鬼」と似ていた。
「……おい、あんた、鬼か?」
「く、くく……そう呼ぶ者もおったな。だが、それも今は昔のこと」
私はただの亡霊だ。貴様とて同様であろう。
朗々と語る男に、不思議なほど平助は危機感を覚える。この男は危険だ。そう脳内で誰かが叫んでいる。
「お前、俺をどうする気だ」
「どうする?……どうもせんな」
「は?」
勝手に来たのだから勝手に帰れば良いだろう。冷静に言う男に平助は脳天を打ったかのような錯覚を覚えた。先程から「ありえないこと」ばかりで、彼は気分が実に悪い。段々と、男の体が透けていく。おい、と男に呼びかければ、男はゆったりと振り返って笑った。
「恨むのであれば、龍神を恨むが良い。貴様は時の間に巻き込まれたのであろう。まがい物が故に」
「おい」
我が名はアクラム。時の亡霊よ。言い切るよりも前に、男は姿を消した。
「消えた?!」
鬼か、という疑問に対して男は是、と応えた。であればあの男は鬼の一族だ。藤堂は斬ればよかったか少し後悔したが――だが、先ほどの男の話を信じるのであればここは「どこでもない場所」だ。平助のいた場所ではない。そして男も、そこにあり続けている自らを亡霊だと嗤っていた。
「…くっそーなんなんだよ、ここ」
なんでもいいから早く出してくれよ。陰鬱とした気持ちのまま、平助はどかりと座り込んだ。
昼も夜もなく、真っ白な空間に紅葉だけがある。足元の紅葉をちょい、ちょい、と触れてやれば葉っぱの独特の肌触りだ。
その葉っぱが、いきなり空に舞、大きなうねりを上げて平助にのしかかって来るなんて誰が思うだろうか。
先程からの非現実的な行動に目を瞬かせ、え、だのうわ、だの声を上げるが、彼以外周囲には誰もいない。手を思い切り持ち上げてみるが、あっさりと葉は彼を飲み込み――そうして、平助は目を閉じた。

「、遅刻するわよ」
「うわ、もうこんな時間?」
午前7:55、天気予報を横目にはトーストを口に放り込み、母親の急かす声に慌てたように鞄を手にとった。
受験生、と呼ばれる類のものなわけで、相変わらず日々はせわしない。奇妙な体験をしたが、それはあくまでも一瞬の出来事のように吹き飛び、まるで何もなかったかのように穏やかな日々を過ごしている。
”は神かくしにあった”
そのことを識る人間はいない。
時間は一秒たりとも動いていないなかで、彼女は激動の時代を生かされた。それは彼女の中に残っている。胃もたれを起こしながら扉を開けた。
パンはまだ食べきっていない。バターの香りが鼻孔をくすぐっていて、もうちょっとゆっくり食べたかったと後悔だけを残している。
「さん、郵便ですー」
「はぁい」
「じゃあ、いってきます」
するりとタイミングよく現れた宅配便の男を抜けては急ぎ足で歩き出す。今日は確か模擬試験の結果が返ってくるはずだ。英語がいまいちだったこと、日本史に選択科目をしていればよかったと後悔したこと、その他もろもろを考えながらいつも通りの道を歩き駅に向かう。
彼女がふと足を止めて空を見上げる。
いつもと変わらない、少しいつか見た時とは違う空は晴れ渡っている。
チリンチリンという自転車の音に現実に帰り慌てて前を向いて走りだす。ローファーのつま先はピカピカに光っていた。
……が。
「いっ、て!」
「わ、わ、わ」
どすん、と見事なまでに唐突に走りだしたは誰かにぶつかり、相手はよろめいて倒れた。
「ごめんなさ………」
「何なんだよ、もう!」
目を白黒させたを他所に、少年は先程からの色々な出来事にうんざりして声を荒げる。腰をさすって立ち上がると「気をつけろよなあ、ったくよー」とぶつくさ文句を述べた。
「……ごめんなさい、前、見てませんでした。あの、お怪我は?」
「ん、大丈夫。気をつけろよ」
「本当にごめんなさい」
じゃあ。
それだけ言い残しては凍りついたような脚を無理やり一歩、二歩、と歩かせる。どくん、どくんと先程から耳鳴りと心音が鳴り響いている。彼は、まさか。いや、ありえない。ぐるぐると考えながら、そうして足を止め、ゆっくりと振り返る。
少年は、まだを見ていた。
「……どうしてここに、いるの?」
「……どうしてお前がここにいるんだ?」
少年は、浅葱色の制服を着たまま、ぽかん、と立ち尽くし、目を白黒させながら訪ねてきたのである。
それはまさしく、”巡りあい”であった。
不幸なのは、彼らは揃いもそろって「朝」であったことだ。はまじまじと見ていたが現実に帰りごめん、また、と曖昧な言い残しをするや否や電車の方角へと走り去ってしまったのである。
取り残された少年――藤堂平助、はぽかんと彼女を見送り、次に自分の服装に気づき「うわっ」と奇怪な声を上げた。
ぐるりと見渡せば知らない場所、しらない人間、知らない格好。
そうして、自分を呼ぶ知り合いたち。
「遅刻するよ!」
「え、えー?!」
何がなんだか、さっぱりといっていいほど分からない状況ながらに彼は無理やり「学校」に行くはめになったのである。