太陽が呼んでいる

 東京選抜に落ちた。最後まで名前を選ばれることはなかった。
 茫然自失になるかと思ったが、実を突きつけられて三上は鈍器で頭を殴られたような、それでいてどこか「ああ、やっぱりな」と思う部分もあり溜息をつくことも出来ず、乾いた笑いを浮かべる。
 精一杯やったか、と聞かれれば分からない。自分のよさも出し切れたかは分からない。けれども、悔しいと思う気持ちはあった。悔恨。焦燥。様々な気持ちが渦を巻いて、それでいて言葉に出来ないせいで腹の中で余計にミックスされる。
 選抜の合宿場から井の頭線を乗り継いで、駅を降り河川敷を歩く。夕焼けに染まる河川はどこかキラキラと輝いているのに、気持ちは晴れない。自分以外の同校のメンバーは受かった。自分は落ちた。その現実が目に焼きついて離れない。
 一緒に帰るかと渋沢は気を使ってくれたが、その優しさが逆に痛く、そして自分が最も嫌いな男が受かったことが余計に気持ちを焦らせた。

「――別に」

 大会優勝をすることが最大の目標だから、選抜で受からなくても、そちらに集中すればいい話だ。
 そうやってどうにか自分自身に言い聞かせようとする。けれど、言い聞かせても言い聞かせても彼の中にあるもう一人の自分の【本音】が嘘だとせせら笑い、ねっとりと取り付くように言うのだ。

 俺は負けたんだ。俺はあいつに勝てなかったんだ。俺は「10番」にはなれない。

 やっていられない。苛立ちを隠せず、舌打ちして振り切るように駆け出した。一心不乱に駆け出したのはそんな気持ちを認めたくなかったことと彼の中にある矜持が崩壊していくのが苦しかったからだ。
 夕焼けが川面をオレンジに染め上げ、子供たちの騒がしい声が耳に残響として残る。
 はぁ、はぁ、と息を切らすほどにずっと彼は走り続け、やがて糸が切れたように足を止めた。心臓は勢い良く走ったせいだろう、ドクドクと速いリズムでビートを刻んでいる。

「――――ちき、しょう」

 涙は出てこない。ただ、痛かった。それまで俯くことをしなかった彼がこのときやっと顔を俯かせた。
 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 声にならない声が咽喉の奥で何度も何度も渦を巻いて、そして消えることなく余計に心臓を貫いていく。にじみ出る汗を無理矢理手で拭っていると、前方から女の高い悲鳴声が聞こえてきた。何事かと彼は顔を上げると何か小さくて速いものが此方へと突進してきている。
 このとき彼も避けれれば良かったのだが、生憎と考え事を黙々としていたせいで反応が遅れた。
 「ああ、あれは犬だ」と確認してから彼が恐ろしい激痛に見舞われるまで大体三秒ほど。何が起こったのかはともかくとして、三上は地面に膝をつき、がくっと蹲った。その傍らでは犬が遊んで欲しいのか尻尾を振って「わん」と小さく鳴いている。


「ああああすいません!大丈夫ですか!」
「……いってぇ」

 思わず零れ落ちた言葉に、恐らくはその犬の飼い主であろう人間はもう一度ごめんなさい、と頭を下げた。ようやく彼はその女の存在を認識し、少しだけ驚く。恐らくは同い年、ないしは年下程度の女だ。
 泣きっ面に蜂というのはこういうことなのだろうか。落ち込んでいる暇など神は与えてくれないということなのか。何をやっても苛立ちばかり覚え、三上は小さな舌打ちをひとつ零す。

「あの、大丈夫ですか、本当にすみません……!」
「あー……別にいいんで」
「で、でも」
「もう良いから」

 払いのけるように鞄を持ち直し、三上が歩き出したのを慌てて女は追いかけてくる。鬱陶しい。苛立ちを隠すことも出来ず膨張していくばかりで今にも髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回してしまいたいほどだ。
 「あ」と女は何かに気付くと片手にぶら下がっていた近くにある大手コンビニチェーンのビニール袋から一つ何かを取り出し「じゃあ、お詫びにこれ……」と半ば押し付けるような形で三上にそれを突き出す。
 押し付けられたせいで思わず支えようと手が出てしまい、それを受け取るとひんやりとしたアイスで三上は顔を上げるが、女は矢張り頭を下げるばかりで「本当にすみませんでした」と言い残すと事の発端になったにも関わらず暑さにばてている飼い犬に「帰るよ」と引っ張り、そのまま去っていった。
 受け取ったアイスはコンビニの中で恐らくは一番高い四百円代のバニラアイスだった。

「……甘っ」

 口の中でとろけるアイスは、じんわりと疲れを癒すほどに甘い。甘いものを食べると心が落ち着くというが正にその通りで、彼の中にあったササクレだった気持ちはほんの少しだけ、緩んだ。



* * *


 次の日、彼は部活を休んだ。休むには欠席理由を言わなければならないのだが、恐らくは気の利くチームのキャプテンが何かを言ったのだろう。鬼監督ということで有名な、三上にとっては忌々しく憎々しい監督がいつも以上の仏頂面で「今日は良い」と言い出したのだ。明日は雨か、それとも雪か、はたまた槍でも振ってくるのではないかと不安になったが、折角の休みだったので彼はその足をずるずると引きずって松葉寮を出ると駅前までだらだらと歩いた。
 天気は快晴、真夏日。突き抜けんばかりの青空とさんさんと光り輝く太陽に「ここ何年海に行っていないだろう」ということをふと思い出してはぁ、と重たい溜息を零した。海が特別好きだというわけではないが、サッカー漬けになりっぱなしの日々に辟易していたのかもしれない。何よりも昨日の今日だ、気持ちは浮上しやしない。
 駅近くにあるLOFTで買い物をすべく歩いたり、偶にはと服を見て回るがどうにも心が晴れやしない。ゲームセンターでガンシューティングを試しにやり、鬱憤を晴らすべくガンガンと撃つがゾンビは彼の心境など同然分かるわけもなく襲ってくるばかりだ。結局ゲームオーバーになってしまい、苛立ちは益々増すばかりだ。
 あー、くそ。溜息を吐き出すと諦めて彼は来た道を戻り、駅の反対側の出口へぐるりと回って出て駅の先にある公園で一人黄昏ることにした。ただ、ここでも彼は念頭においておかなかったせいなのだが、この公園は必然的にカップルが多い。夏だというのにイチャイチャべたべた……見ているこちらが蒸暑くなりそうな態度に生気を吸い取られ、三上は重苦しい溜息を本日何度目か分からない勢いで吐き出した。
 本当についていない。
 野外舞台の上手に腰掛けると近くの店で売っていた水を飲むと流石に買いたてということもあって咽喉が潤い、一瞬の暑さを忘れるほどに冷たい。

「――あーくそ」

 足を投げ出し、鬱屈とした気持ちを払拭できず悶々と彼は口をへの字にして沈黙する。空は高く、相変わらず青い。
 昨日貰ったアイスは一人で食べるにしては量が多く冷凍庫に名前のふせん付きで入れておいたが間違いなく部員の誰かが食べそうで、それにも腹が立つ。悶々としながらどうにかして目を閉じる。
 選抜に落ちたこと、これからのこと、色々なことを考えては余計に嫌になってくるばかりだ。

 そのときだ。あの、とどこかで聞いたことがある声が聞こえてきたのは。

「……あの、やっぱり、昨日の人ですよね」
「…………あ?」

 少し日差しの眩しさから目を細めながらも三上が顔を上げると、そこには昨日の突進してきた犬の飼い主が立っていた。以外だったことは彼女が身に纏っている制服は間違いなく自分と同じ武蔵森の女子の制服だ。
 男子棟と女子棟と其々別なので当然三上はこの女のことを知らないし、彼女もまた三上のことを知らない。何よりも三上は私服だ。彼女は彼が自分と同じ学校の人間であることに微塵も気付けていないようで、本当に昨日はすみませんでした、ともう一度頭をさげるばかりだ。暫くの間二人の間には沈黙が訪れる。なんとなく気まずいムードに何か話さなくてはと迷うのだが言葉は出てこない。
 先に口を開いたのは三上だが、三上は至って表情を変えることなく、ぽつり、と呟く程度の声の大きさで言う。

「……その制服」
「え」
「武蔵森の中学部のだろ」

 何故知っているのだろう。思わず彼女は顔を上げたが、三上は知っていて当たり前だ、と前提で一言言うと「俺も武蔵森だから」と一度区切ってからさりげなくそう言った。
 女の目はこれでもかとばかりにひん剥かれ「そうなんですか?!」とどう考えても、どう見ても三上のことを知らないであろう言葉を漏らす。女は と言うらしい。しかも彼と話していくうちに彼女もまた三年生だということが発覚しお互いの目が点になる。偶然に偶然が重なり合い、どう反応したらいいのかお互いに困る。

「……なんでお前、制服なんだよ、夏休みなのに」
「あ、補講で……」
「ふーん」

 会話が続かない。三上君はどうしてここに、とは尋ねたが三上は「何だっていいだろ」と突っぱねるばかりで返答にすらなっていない。
 そんな二人を容赦なく紫外線と日差しが突き刺していく。池の近くだといっても、暑いものは暑く、じんわりと肌が汗ばんでいて気持ち悪い。おもむろには先日同様勢い良く立ち上がると三上に「直ぐ近くにおいしいジェラート屋があるんでそこ行きましょう」といい放った。
 一見すればどこかのナンパ師まがいな言葉なのだが、彼女は真面目な顔で、からかおうものなら噛み付かれてしまいそうな勢いを持っている。三上は別にいいと首を振ったのだがは昨日の侘びをちゃんとしたいと主張を曲げることはしない。
 そもそも昨日の侘びなら既に大きいサイズのアイスを一つ貰っているので、彼女のお詫びは重複してしまうのだが、彼女にはそんなことなど関係ないらしい。

「あ、それとも甘いもの苦手とか…」
「いや、別に……」
「なら! 本当にすぐそこなので」

 三上が誘いに乗ったのは単純に「暑かったから」で他に理由なんてものは無い。前を歩くの後姿をぼんやりと見ながらつきって歩いて行くと階段を上りきった先に少しこじんまりとした喫茶店の前に彼女は立ち「ここです」と楽しそうに笑った。
 店の中には黒い猫が座って涼しそうにごろりと眠っていた。飲食店に猫がいることに彼は驚いたが、里親募集の張り紙を見て「ああ」と妙に納得する。ジェラートはいくつも美味しそうに置かれており、食べる気がなかった三上の咽喉が自然と鳴る。窓際のテーブルに二人で座り、三上はアイスコーヒーと共にカップでダブルのアイスを結局彼女からどうぞと渡された。
 別にいい、と言うつもりが既に彼女はジェラートを頼んでおり、渋々と彼はアイスを口に運ぶ。さっぱりとした、夏に合う味付けだ。


「三上君も、武蔵森なんですよね?」
「ああ、そうだけど」
「……じゃあ、受験はどうするんですか?」

 受験。進路。そんなこと三上の頭の中には全く入っていなかった。彼女の言葉に驚き、言葉を待てばは外部受験しようか悩んでることをぽつり、ぽつりと呟く。
 正直なところをいえば、三上にはどうでもいい話だ。それとなく「エスカレーターがあるだろ」と彼は言うとは顔を渋め「目的もないのに上にあがって楽するみたいな気がして」と申し訳なさそうに言う。三上にはそんなイメージが無い。どんな形であったところでサッカーをやり続けている自分しかイメージが無いのだ。進学するためには試験はあるのだが、実際問題彼の学力ならば問題もなく、誰でもあがれるようなものだ。
 だからこそ、がそんなことに悩むことが分からず、ただ話を右耳から左耳に受け流すことだけを続け、ジェラートとアイスコーヒーを食し続けていた。

「―――三上君は、将来の夢とか、あるんですか?」

 三上は即答をするつもりで口を開いた。目標なんてものは既に決まっていた。――だが、言葉にはできない。言葉にしようにも一瞬の陰りに沈黙してしまう。が首をかしげ沈黙したので彼は話をそらすように「お前はあんのか?」と質問を返した。
 の答えは簡単なもので「何もないから、困ってる」と首を横に振ってそれだけ答えた。二人で沈黙をしていると、冷房の冷風が涼しく当たる。


「……ずっとそれだけやってきたら、どうしたらいいのか分かんねーよな」

 彼の言葉はまるで、帰り道の分からない子供のような声だった。は顔を上げたが、三上は最後の一口を食べ終わると「ごちそうさん」といい去っていく。その後姿にが「あの」と何かを言いかけるが、結局何を言ったらいいのか分からず、首を横に振ってただ彼の背中を見続けた。
 答えは、出てこない。頭を切り換えなければいけないのに、まるで切り替わらずただ惰性でサッカーを続けているのではないのだろうかという錯覚を覚え、三上ははぁ、と溜息を再び零した。
 空はあんなにも晴れているのに、彼の心の中は常にどんよりと雲がかかっている。吹き飛ばしても吹き飛ばしても集まってきて、結局その雲に包まれて圧迫され――答えが出せないままだ。


 次の日、彼は想像以上に早い時間に目を醒ました。のそのそと起き上がると同室の少年のいびきが聞こえてくる。
 先日帰宅すると心配していたのかオロオロとしながらスーパーの袋の中にあったプリンを「ご苦労様」といってベッドに引っ掛けておいてくれたのだ。ほんの少しの罪悪感を感じながらジャージに着替え軽くランニングにでもいこうと部屋を飛び出す。
 寮内は妙なぐらいにしん、としていた。

「三上」
「……藤本先輩」

 寮内にある食堂に、一人の青年が腰掛けていた。前年の中盤を率いていた10番の先輩。武蔵森を全国へ率いた天才ともてはやされるほどのMFに三上はどうしてここにと目を丸めた。
 時刻はまだ四時半だ。誰も起きてはいない。驚きを隠せず藤本に会釈を返すと彼は柔らかく笑って「元気そうで何よりだ」と読んでいた本を閉じる。

「選抜、終わったんだってな」
「はい。……落ちました」
「そっか。お疲れ」

 彼はそれ以上慰めの言葉も、励ましの言葉もかけなかった。どうして彼がここにいるのか、どうしてここで本を読み続けているのか――三上にはただただ、分からず会釈を返すと食堂をよぎっていく。
 三上が出て行った後も藤本は寮のテーブルに肘を着いてはぁ、と溜息を零した。いかんせん不器用な性格なせいか彼は行き方が狭まっているような気がして心配で仕方が無い。藤本に電話をしてきた渋沢はどっしりとGKらしい態度で「藤本先輩から、何か言ってもらえれば有難いんですが」と物動じすることなく留守番電話に残していた。改めて三上と渋沢の二人をは極端な差がある中で、いいコンビだ。
 呼んでいた本を閉じるとうっすらと明るくなり始めた空を眩しそうに目を細め、藤本は見据えた。
「――今日も、暑くなりそうだ」


* * *

 どのくらい走り続けただろうか。気付けばまだ暗かった空は朝焼けに染まっていて、ぬるい風が何度も何度も三上の頬を滑らせている。
 鬱陶しい、温い風だ。
 ち、と舌打ちを零すとぐん、と加速する。どのくらい走るのか、なんてものは最初から考えていなかったせいか黙々とジョギングのつもりがダッシュに変わり、息が切れてもう歩けないと体が悲鳴を上げるまで三上はただ、走り続けた。鬱憤を晴らすように、ただ、ただ。
 朝練に入るとまた再び走ることになる。普段表立っての努力を見せることを嫌っている三上が、今日は誰よりも最前列でダッシュを続けていたことに違和感を覚えた部員が何人も顔をあわせていたのがより印象的だ。ただ、その状況下でもキャプテンの渋沢は表情を変えること無く黙々と彼らと共にトレーニングを続けている。遅刻してひょっこりと入ってきた藤代への注意を忘れないあたり流石というべきだろう。朝練の途中で三上、とコーチが三上のことを呼び止めた。このとき三上はある程度覚悟をしていたが、案の定というべきか「監督が呼んでるぞ」というもので彼は思わず顔を渋くした。
 コーチは三上が納得を言っていなかったことを知っているのか居ないのか表情を苦くしたが、それ以上何も言うことは無かった。その中途半端な「気の使われ具合」が嫌なのだが相手は大人で、しかも自分は「使ってもらっている身」であることを思い出しぐ、と三上は耐え頭を下げる。
 監督は部の寮内にある会議室に居た。いつも試合が終わった反省をレギュラー、そしてベンチの面々に一人一人聞くときに使う部屋だ。別名「魔の会議室」一度入ったものは精神的に追い詰められる、というもっぱらの噂だ。……それは、あながち間違っていない。
 深呼吸を一つすると扉のノックを3度し、失礼しますという言葉と共に入る。

「監督、お呼びですか」
「……選抜合宿、ご苦労だった」

 桐原は表情を変えず一言だけそう言った。その表情に思わず三上は「知れたことを」と内心毒づき、舌打ちしたい気持ちを精一杯隠す。本当は同じ中盤のご自慢の息子が受かったことが嬉しいくせに。ええ、アンタのご自慢の【お坊ちゃん】はいの一番に合格を通達されましたよ。
 内心の言葉とは裏腹に三上は淡々と言葉を返す。やりきったか、わかりません。これからお前はどうするつもりだ、部の都大会制覇、その後の全国制覇に迎えての努力を惜しまないつもりです。
 淡々と言葉を返し続けた後、やがて部屋は静寂に包まれた。桐原は腕を組んだまま何も言わなかった。その尊大な態度にアンタ何様だよと思わず呟きたくなったがぐっと彼は堪え舌打ちをするだけで終える。我慢だ。我慢。
 漸く開放されると三上は扉の向こうの桐原に一瞥すらくれてやることなくどかどかと歩き出す。グラウンドでは二軍が先ほどからランニングを続けており、その中の二年生が一人ぐん、と第一集団から抜け出した。こんなクソ暑い日に、あんな照り返すようなグラウンドで走って、何が楽しいのだろう。いや、決して楽しくは無い。特に二軍三軍はボールに触れる機会はほぼないに等しい。常に優先されるはレギュラー、そしてサブ、サテライト、最後に三軍だ。だというのに、彼らは必死こいて走りこみを続けている。
 馬鹿みたいだ。俺も、あいつらも。
 けれど、あそこにいた彼らの中の一人に嘗ての自分がいたのも事実。二軍からスタートの中で、手を伸ばして手を伸ばして、たった11人の中の栄光のユニフォームを勝ち取ったのだ。だから、三上には彼らが我武者羅になっていつか認められる日を目指しているのも分かる。知っている。感じることが出来る。決して天才肌ではない自分が今こうしてここにいれた理由は間違いなく努力を積み重ねているからだ。
 そういえることが出来た。努力をやめなければ報われるし、認められるし、自分自身が更に前にいけることを知っていた。

 しかし、その努力も無駄なのかもしれない。

 一瞬陰りを見せた自分の心が浸食されていくのはあっという間で、三上には走っている彼らがどこか遠い、眩しい存在に思えて仕方が無い。確かにあの場所で、自分も走っていたのに。目的を持って走り続けていたのに。

「だっせぇ、俺」

 苦々しく彼は吐き出すように呟く。遠くで野球のボールの音だろうか、カキィ――ンという音が響きわたる。思わずそちらを見れば、青い青い空が彼の瞳に映る。全てを吸い込みそうなほどに、青い空だった。



「三上」
「……渋沢」

 GKというものは大変だと常々三上は思う。このクソ暑い中でも長袖でなければならないし、動かない分だけ動体視力と反射神経がものを言う。メニューも人と違う。一点を取られればそれはGKの責任にされてしまう。DFに非があったとしても咎められることは多い。
 渋沢克朗という男は、順風満帆というべきか、一年生のときから群を抜いて上手かった。GKとしての素質、中学生にしては大柄なその体。流石いくつもの他校のサッカー部から声がかかるほどだ。少年サッカークラブに居たとき、三上は渋沢のことを見たことがあった。そのポジショニングの上手さや激励の仕方。全てがうまい、と思ったものである。まさかその数年後こうして並んでいるとは思わなかった。渋沢は周りがよく見える。チームのキャプテンシーをよくよく持った人間だ。恐らくは渋沢は自分のことを心配しているのだろう。三上は瞬時に悟った。
 武蔵森から選抜に呼ばれた四名の中で選ばれなかったのは自分だけだ。そして、そのことは武蔵森の誇りに泥を塗ったに等しい。
 けれども、誰も何も言わない。それは三上のプライドを傷つけないようにするためだろうか、労わってのことだろうか。どちらにしても三上には分からなかった。

「FKの練習でもしないか?」
「……藤代がいるだろ」
「あいつ、ブロック一枚壊したから今コーチに暫くFK禁止令を食らってるんだ」

 馬鹿力め。思わず三上は呆れて溜息をついた。渋沢は困ったように「そういうわけだから、俺も練習したいし付き合ってくれないか?」という。藤代が物を壊すのは今に始まったことでもないが、改めてあいつは馬鹿だ、と三上は呆れやら色々な気持ちを込めて溜息を零した。渋々了承すれば渋沢は少し安堵したように笑み、頷きゴール前で構えた。
 ペナルティエリアから少し離れたところにブロックとボールをセットし、三上は深呼吸を一つする。周囲のざわめきも、何も入ってこない。ゆっくりと振りかぶり、ボールを蹴るとぐんとボールは弧を描きゴールネットを揺らそうとした。
 ――が。
 ばぁん、と鈍い音が響き渡る。ころころと転がったボールはゴールネットを揺らすことなく、ポストの傍に落ち、沈黙した。

「……わりぃ、力んだ」

 軽く手を上げると渋沢は「気にするな」と笑う。もう一度、彼はボールを軽くリフティングし運ぶと足元に置いた。今度は先ほど狙った場所と反対側を狙う。ブロックとバーときわどいラインのギリギリの場所だ。これなら入る。絶対的な自信がある角度からのシュートだった。けれど、今度はバーに当たり跳ね返ってくる。
 ポスト、バー。悉く枠に嫌われている自分に思わず失笑すれば渋沢が「次」と淡々と返してくる。こんなときでも彼は「どうした」とは言わない当たり器の大きさだろう。
 三度目。
 彼の狙ったボールは枠にも、ゴールネットにも突き刺さることなく大きく反れてフェンスに突き刺さった。
 目に見えて分かる不調に三上は驚き、そして苛立つ。こんなことで。こんなときに。自分自身に納得がいかず、頭を思い切りかきむしりたい気分にすらなる。

「――三上」
「悪ィ、練習になんなかったな。……俺別の練習してくるわ」

 渋沢の返事を聞くよりもはやく、彼はボールをとん、とんと拾い上げコントロールをするようにリフティングをしながら歩いていく。ドリブルしながらのリフティングなんて試合で出来る人間はかなり少ない。その妙技が出来る人間はプロの試合でも周囲を沸かすことの出来る「ファンタジスタ」だけだ。
 以前三上が一度ボールボーイをしたときに顔をあわせたサッカー選手がやってのけたのを覚えている。彼はとてもサッカーを楽しそうにやっていて、ポジションも同じであるから思わず憧れた。あんな巧みなことをしてみたいと思ったものだ。
 けれど、そんな余裕は今の彼にはない。一心不乱に、ただ彼は走りこみを黙々と続け、ボールタッチの練習を続けた。朝練が終わり授業が始まっても机の下でダンベルを何度も振り、授業が終われば先日の分も含めてジムに引きこもりウエイトトレーニングを続けている。まるで人が変わったみたいだ。ぽつりと笠井が呟いたが渋沢はそれに対してゆっくりと首を振る。元々努力家な彼は表には出さないだけでずっと同じことを繰り返していた。
 だから、何も不思議なことはない。
 夕方の練習を終えてメンバーが去っていっても彼はまだ一人残っていた。帰らないのか?とコーチが尋ねたが三上はもう少しだけ、と言うだけで言葉を濁す。
 渋沢とやろうとした同じ場所で、もう一度ボールを置き黙々とボールを蹴る。外れても、外れても何度も何度も繰り返した。ポストに当たり、バーに当たり、遠い空彼方へ大きく外れる別名“宇宙開発”になってしまっても、彼は何度も何度も蹴り続ける。
 けれども、一度たりともネットを揺らすことは無かった。苛立ちと共に完璧なまでのFKを決めた水野の顔が頭をよぎる。認めたくは無かった。認めたところで何にもならないのだ。自分が、完璧なプレーが出来なかったから選ばれずに終わってしまった。彼を意識しすぎた結果だ。
 分かっている。分かっていた。気付いていた。
 けれど――認めたくなんか、なかった。たった一人の存在に振り回されて、その結果メンタル面で自分がこんなにも弱いことなんて、知りたくはなかった。
 思わずしゃがみこんだ彼は顔を伏せた。

「ちき……しょー……」

 涙が出てきそうなのを必死に堪える。けれど堪えても堪えても涙が零れ落ちてきそうになって、必死に歯を食いしばり顔を上げた。
 涙なんてものを彼は認めない。
 コートの内側にあったボールを一つ一つ片付けて、誰も居ないグラウンドを彼は後にした。渋沢や藤代や間宮や他の面々は自分より一歩先に歩き出しているのは三上にも分かる。けれど、彼の中にある、持余すほどの激情は嫉妬と羨望とでグチャグチャにかき混ざり合う。狂いそうなほどに。
 はぁ、と思い切り溜息をつき、月さえ見えぬ夜道をよたよたと彼は歩き出す。コンビニを素通りすれば丁度自動ドアが開き同い年ぐらいの女子が顔を覗かせる。

「あ」
「……またお前か」

 コンビニ前で行儀良く待っていた犬と、その飼い主に思わず三上は眉間に皺を寄せてこれでもかと溜息を零した。
 嫌なタイミングで会ってしまった。ここ数日で知り合ったという人間は武蔵森の生徒であっても三上のことを知らなかったようで、三上くんだ、と小さく会釈をする程度だ。武蔵森のサッカー部は中学高校共に名門で、高校サッカー選手権は勿論のこと中学の大会でも制覇を目指し挑戦し続けている。そこのレギュラーであれば自然と顔が知られるもので、ちょっとした有名人だ。……それに、藤代などは顔も悪くないし、性格も明るいからか一種のアイドルまがいなものになっている。
 しかし、は彼のことを知らなかったらしい。リードを引いて三上の横を歩きながら彼女は「三上君ってサッカー部のレギュラーだったんだね」と呑気極まりなく朗らかに笑った。
 三上の返事は気もそぞろで、「あー」だの「ああ」だの、中途半端な返事ばかりだ。コツ、コツと彼女のサンダルの音と三上のスニーカーの音が夜道に静かに響く。

「うちのサッカー部って強かったんだね。女子棟に居ると男子の話なんて朝礼ぐらいでしか聞かないからさ」
「あー……」
「でも、じゃあやっぱり前に話したときに言ってた「先のこと」って三上君はもう高校いってレギュラーになるので決まり?」

 先のことが見えない。そうが小さく呟いたのはほんの数日前のことだ。心底不安そうな声だったのを彼の耳に残っている。けれど、三上はふいと視線を逸らし「しらねえ」と淡々と応え返した。自分のことだというのに、自分の未来が見えない。乗じて先ほどの練習での失態を思い出しこの状況でレギュラーが取れるかという自分自身への問いに自答すれば「No」だ。受け止めきれない重たい現実と、暗い未来に彼はただ、翻弄されるばかり。
 重々しい声で、もう一度「しらねーよ」と呟くと不意に足音が一つ消えた。

「三上君」
「何だよ」
「じゃあ、三上君の夢って、何?」

 ぽつり、と彼女は尋ねた。人に聞いたところで自分自身が見つけられなければ意味なんてものは存在しない。きっと彼女もそんなことは分かっているのだろう。けれどは三上に問う。理由は分からないが、真面目に彼女は彼に尋ねた。
 何故、どうして。
 ――それに三上は応えることが出来ない。
 聞きたいのはこっちのほうだ、見つけたいのはこっちのほうだ。顔を背けるとは小さな声で「夢って、わかんないよね」と呟いた。
 視線を配れば犬が「わん」と小さく吼えて速く帰りたいのかぐいぐいと彼女を引っ張り出す。わ、と小さな悲鳴をあげながら彼女は飼い犬に思わず釣られて歩き出す。先ほどのセンチメンタルの空気はどこへいったのだろうか。そんな疑問を打ち消すようにくるりとは振り返ると、「それでも、三上君の夢、叶うといいね」と笑った。
 夢が分かったら、いつか教えてね、とも付け加えて。
 何も分かってないくせに。何も知らないくせに。
 取り残された彼は小さく「うるせぇ」と呟き、そんな自分に自己嫌悪し、己の髪の毛をぐしゃぐしゃとかきむしった。人に当たったところで仕方が無い。仕方が無いのに、気持ちの整理が付かない。

「……夢って、なんだよ……」

 三上の口から出た言葉は、今にも泣きそうな、震えたものだった。



* * *


 その日、彼は重たい体を引きずるようにして昨日と同じく朝日が昇るよりもはやく起きだして早朝トレーニングにかかった。幸い藤本お姿はなく、妙に安堵した。あの人は苦手だ。走りこみながらもくもくとそんなことを考える。
 夏の朝は矢張りぬるい風が吹くが太陽が高く上ってしまうよりも気温は少し低くすごしやすい。ランニングを続けようとグラウンドをぐるり、と走り続ける。走っていると黙々と考え事が出来る反面、悪いことも必然と思い出してしまうものだ。
 昨日と交わした「夢」や、水野のこと、選抜のこと、学校のこと。考えていけばどんどん気持ちは沈んでいくばかり。苛立ちを隠せず、淡々と走り続けた成果だろうか、以前より長距離が徐々にではあるが得意になりはじめている。時折訪れる恐ろしいくらいの立ちくらみを耐えきれば、ゴールは近い。
 もう少し、もう少しだけ。そうやって彼は黙々と努力を積み重ねていく。不安定なジェンガを組み立てるように、黙々と続けているとふっと視界にたくさんのボールが詰まれた籠が入ってくる。
 足を止め、荒れる息を整えながらゆっくりとそちらに向かうと三軍の名前も知らない、恐らくは一年生だろう少年がひょっこりと顔を出した。背も小さく、ガタイもいいとは言えない。どことなく風祭を思い出させるような、そんな少年だ。風祭将。細身の体に小さな背。決して上手いとは言えないサッカーセンス。どこにでもいる、下手くそなサッカー少年。
 けれども彼は残った。東京中のサッカー少年が目標の第一段階にしている「選抜」に。たった23人の枠に、滑り込みの補欠とはいえ、残ったのだ。
 考えるだけで嫉妬に苛立ち、そんな自分に嫌悪し、思い切り彼は地面を踏みつけて歩き出す。ずんずんと歩き出す姿は鬼神か何かのごとくだったのか、一年生は気配を感じ振り向くと硬直した。慌てて現実に引き戻され、姿勢を正し「おはようございます」と頭を下げる。


「…何してんだ」
「あ、はい、えっと」

 レギュラーの三上に緊張しているのだろうか。彼の籠を持つ手は僅かに震えている。三上は部員の顔を覚えていないし、名前も知らないのだがが相手はどうやら自分のことを知っているようだ。

「空気が昨日少ししぼんでいたケースがあったのでその空気入れです」
「ふーん」

 物好きな人間もいたものだ。彼はボール一つ一つを軽く触ってどの程度空気が入って居ないのかチェックをする。こういった作業はマネージャーや三軍の朝の仕事だ。一人きりでやることもない。三上もまた三軍時代に同じコトをやらされたことを覚えている。
 何が楽しいのだろう。彼は一生懸命に何十個もあるボールを追いかけて、空気を入れていた。ふと、彼は持っていたボールに空気を入れ始めて数分たってから「オレ、三上先輩に憧れて武蔵森に来たんですよ」と呟いた。
 突然の告白に驚き三上は持っていたタオルを危うく落としかける。慌てて首に巻いて「はぁ?」と返すと少年は顔を上げてにこ、と笑った。

「去年、大会で三上先輩ゴール決めたじゃないですか」
「……ああ」

 秋の大会のことをいっているのだろう。三上が決めた弾丸ミドルシュートは値千金、全国大会へ駒を進めた決定打だ。夏の大会あけの新人戦。一年生と二年生主体のなかでよく粘り勝ったと評価も高い試合。
 武蔵森も黄金期はもう過ぎてしまったと言われ続けた中での、黄金期の再来と言わしめるような試合をしてみせた。それは三上にとっても、渋沢にとっても、多くの人間にとっても影響力の強い試合だった。
 一年生は、へにゃと犬のような笑顔を浮かべて「あれ見て俺武蔵森に決めたんですよ」と言い切った。そういえば今年の一年生は去年よりももっと意志が強いように見える。去年の一年生といえば風祭が居たからやめる人間は例年より少ない打とか様々な憶測が上げられているが、今年の一年生も中々粘っている。

「俺にとって三上先輩は目標なんです」

 自分が誰かの目標になっていることを、三上はこのとき初めて知った。ジュニアユース、ユースと部活サッカーじゃそれぞれやり方が違う。三上が知っている人間の何人かは「部活でサッカーをやるよりプロ下でやりたい」という理由でジュニアユースで続けている。このままいけばジュニアユース、ユースの生え抜きとしてプロ入りしそうな先輩もいる。……そういった様々な人間がいるなかで、どして自分なのだろうか。目を白黒させる三上に気付かず一年生は嬉々と話を続けた。
 スランプに陥っていた自分に目が覚めるようなシュートを見せてくれた、正確なポジショニング、司令塔としてだけではなく全員で動いていく武蔵森の組織サッカーを理解し波状攻撃をやめないその姿に感銘を受けたから、ここに自分がいるのだ、と。彼の目は輝いている。見えない未来への不安ではない、真っ直ぐ突き刺さるほどの光を持って三上を見ていた。それは、確かに彼自身が過去に持っていた目だ。

「―― そ、うか」

 彼は「自分」だ。過去の自分が重なって一年生の表情が自分の表情に見えてきて三上は妙に感慨深く思う。ああ、俺もこんな顔をして、先輩達に言ったのだ。無邪気に、真っ直ぐに。
 『全国へ、いきましょう』と。

「……お前、名前は?」
「あ、はい! 藤本です」

 そして、それは因果なもので、不思議なことにずっと前の世代と繋がっている。藤本。その名前に思わず彼は目を見開いたが、直ぐに「そうか」とだけ返すことにした。
 夢。目標。様々なところがあるがひとつの結論に至る。再び彼はランニングへと戻っていくが、その後姿をずっと「藤本」は見続けていた。その視線に気付いてか、三上はもう下を向いてなど居ない。まっすぐ、愚直といわれる勢いで前を見ている。第三者からすれば「バカみたい」と笑われそうだ。けれど彼は思い出したのだ。どうしてここにいるのか、どうしてここに来たかったのか。
 朝日が昇り、他の部員が入ってくるといつものメニューをこなす。ボールタッチの練習をしていると「三上」と監督の渋い声が聞こえてくる。一瞬部員が静まり返った気がするが、直ぐに音は元に戻りざわざわと誰が言ってるのでもない声が響く。

「はい、監督」
「高等部に上がった藤本は分かるな?」
「は? はぁ」

 桐原はゆっくりと渋沢がいるゴール前を指差す。そこにはゴールキーパーコーチと共に先日何故か寮に来ていた藤本の姿があった。何で居るんだ、高校はいいのか、思わず内心つっこんだが、ここから高校までそんなに時間はかからない。高等部と中等部の合同練習があるとき以外でもはじめは高校にあがりたての人間もちょくちょく顔を出すものらしい。
 同じ「藤本」でも可愛げのない藤本は高等部の色の違うジャージで渋沢とああでもないこうでもないと談笑を交わしており、三上の姿には気付いていないようだ。

「藤本はお前に会いに来たそうだ」
「……俺ですか」

 桐原の物言いは随分と淡々としたものだったが、否定を許さないものだ。何より三上は桐原が好きではない。公私混同をする監督というイメージがついてしまった上に一旦は落とされかけたのだ。それも、ぽっと出の人間に。それがプロというのであれば、三上はさらに這い上がろうとしている。
 愚考で愚直だといわれるかもしれないが、三上の考えはもう「水野」には向いていない。
 ぺこりと一礼すると桐原ではなく彼の足は藤本へと向かっていった。

「藤本先輩」
「よ、三上。体調は?」
「まぁまぁです」
「ふーん?」

 藤本は特別気にする様子もなく、持っていたボールをとん、と吸い付かせるようにして転がした。武蔵森随一と言われたその左足の捌きは見るものを魅了する。Jリーグの黄金時代の再来。そう呼ばれるに等しい人間だ。彼は僅かに笑うと「俺とFK勝負しようぜ」ともう二つほどのボールを持った。
 伝説のレフティー。三上は知っている。彼が試合中誰よりも試合を楽しんでいたことを。彼が試合中誰よりも苦しんでいたことを。

「お願いしやっす!」
「おし、壁は俺が用意した連中でいいな?」
「は?」

 ゆっくりとサイドからわらわらと武蔵森レギュラー陣が上がってくる。フリーキックの練習だからといって態々レギュラーを選ぶところが容赦がない。呆れて藤本へ振り返ると彼はにっといたずらっ子のように笑った。
 ……ああ、全くこの人は。
 思わず頭を抱えたくなったが、悪い気はしない。


「あー先輩俺も俺も!」
「すっこんでろ藤代、お前フリーキック禁止令でてんだろ」

 はいはいはい、と手をぶんぶん振り回す犬っころのような藤代をあしらうと、三上はボールを置いた。並び、藤本が立つ。お先にどうぞ、先輩。そう三上が言うと藤本は少々驚いた顔を見せたが「ようし」とまた楽しそうに笑った。
 それからのことはとてもあっという間に過ぎていった。くん、とボールが綺麗にカーブし、誰もが予想しなかった場所へとボールが向かって行く。ポストにあてるとボールが跳ね返り、渋沢が反応していた方向と全く逆の方向へボールがネットを揺らすした。
 ざっ、とネットの揺れる音。一瞬誰もが息を呑むようなプレー。その次の瞬間のすげぇ、という怒号のような歓喜の声。ほんの数ヶ月前まで中等部で活躍していたプレーヤーは、さらに格上になって見るものを魅了している。思わず三上もまた「すげぇ」と呟き、少々興奮気味に「やっぱ先輩すげーや」と拳を握った。藤代は文句を言っていた顔を忘れたのかまるで女生徒のようにキャーキャー騒いでいる。
 ボールを三上が置くと再び静寂が訪れる。彼はゆっくりと瞼を閉じた。さぁ、どうしようか。
 彼の蹴ったボールは真っ直ぐに壁を飛び越えて、ゴールへ突き刺さんばかりに向かっていった。





「……あ」

 女子棟の前で三上は暫くの間硬直した。同じ武蔵森といっても女子棟にくることなんてめったにないものだから、予想以上に女の華やかさに引きつつどうしたらいいのか分からない。
 忘れていたが武蔵森はマンモス校だ。男子三年だけでさえ六クラスあるというのに、女子が同じ人数いるとしたらそこから引っ張り出すなんて無理に近い。そこまで頭が回らなかった自分に自己嫌悪しはぁ、と溜息をつく。先ほどから感じる痛い視線は間違いなく稀有な目で見られているからだろう。どうしたものだろうか。
 鬱屈とした気持ちをどうにか払拭しようと正門の前に立つと「出て来いよー」と内心念じた。

「あ、やっぱり三上君だ」
「……おう」
「そこ立つの勇気いるでしょ」

 は何気ないようにしてひょっこりと現れた。持っていた鞄を持ち直し、三上のもとへ歩いてくる。流石にここには犬はいないようだ。苦手ではないが、どうにもあの犬には大事なところを持っていかれている気がしてならないので三上はほんの少し、安堵した。
 どうしたの、とは首をかしげると三上はほんの少し咳払いをして「お前に礼を言おうと思って」と照れ隠しのように言った。

「礼?」
「……お前容赦ないのな」
「はぁ?」

 夢とか、目標とか。見えなくなったとしても容赦なく現実を突きつけて「何故ここにいるのか」ということを彼女は問う。無自覚なのかもしれないが、それは彼が出来なかったことだ。ずっと見たくなかったもの。認めたくなかったもの。
 けれど、突きつけられて気がつけたもの。

「――目標、思い出したから」
「……?」
「感謝してる。有難うな、

 それは、彼女が見る三上のはじめての笑顔だった。こんな顔で笑えるのか。そんなことを思いながら彼女はよくわからないまま、にっと笑うことにした。恐らくはその方がいいと思ったから。
 つられてまた彼も笑顔を返した。


「今度、見に来い。サッカー部」
「女子禁制じゃなかったっけ?」
「試合ならいいんだよ」

 まっすぐ向けたボールは、渋沢に止められてしまったけれど。藤本のようにまだ出来ないけれど。水野にも奪われて、都選抜にも落ちたけれど。
 中学三年生。ここから、また再スタートだ。
 そうして、彼の夏が再び始まる。