彼、来栖翔はクラシックの世界に久方ぶりに戻ってきた。
正しくはコンクールに出るのが久しぶりでクラシック自体は相変わらず聞いていたし、練習もしていた。
だが、彼はアイドルである。
今をときめくST☆RISHの一員で、身体の弱さを克服しマラソンも完走、周囲からも「翔ちゃん」なんて言われて追いかけられて黄色い声をあげられる、そんな存在だ。
…………彼が動けば、世間も動く。
コンクールに出たのは自分の腕がどこまで通用するか知りたかったからで、話題作りでも何でもなかった。
だが、現実はそう甘くはない。
「プロジェクトA…………」
「そうデース、勿論知ってますネー?」
シャイニング早乙女が企画書を彼に渡した際に彼は思わず顔を渋めた。
コンクールに出ることを、アイドルのプロとしての挑戦としたドキュメンタリー番組だ。国営の番組なので流石に名前も、内容も簡単なものは知っている。だが、そこに自分が選ばれたことへの困惑は拭えず、彼は何度も何度も企画書とシャイニング早乙女、そして彼の師にあたる日向へ視線を投げかけた。
だが彼らが返す言葉は皆同じ、話題作り、であった。
(そんなつもりじゃなかった)
だが、事務所の決定には従うしか無い。
憂鬱な気持ちを抱きながら、ヴァイオリンの調整を行いレッスンを重ねる。新曲のレコーディングを挟みながらのクラシックのレッスンは大変ではあったが、息抜きでも有り来栖翔にとってはとても充実した時間だった。
当日も、カメラはやはりついてきたし、大会出場者と知ってかファンがどこからか見つけたのだろう、入口付近には女子が居た。
それを笑顔で交わし、階段を登っていく。入り口のロビーには二人の男女がいた。どちらも、彼は知っている。
片方は同年代ヴァイオリニストなら知らない人間はいない程の有名人、サラブレッドだ。翔は何度か彼に負けたことがあるし、彼の曲を聞いたこともある。引き込まれる曲を弾く、いいヴァイオリニストだ。
もう一人の女もしかりで、ヴァイオリニストだ。いくつかの大会で顔を合わせたことのある人間。――。
彼女は視線があうとにこやかに笑ってみせる。ついでに軽く会釈をしてみせたので、視線だけで返事を返す。
それから、手続けを済ませるためにさっさとロビー脇に入って行くと、自然と彼は周囲から視線を集める。
それはそうだ、何故なら「アイドル」の「凱旋」なのだから。
手続きを終えて、紙コップで水を飲んでいると先ほどの―――昔なじみがゆっくりと近づいてきた。
「久しぶり、来栖くん」
「おう、久しぶりじゃん、元気そうだな」
「そっちも。CDとか聞いてるよ」
にこにことは笑う。その笑いにホッとしながら会話をいくつか交わす。アイドルになっているとは思わなかった、だとか、今日の選曲は何故あれにしたのかなど。
出場者とその関係者しか入ってこれない今日のコンクールは流石にファンは入ってこれないようで、少しだけ安堵した。
こうしてと話すことすら憚れるとなると、彼には安息がない。
翔は苦笑いをしながらあいつは、と先ほどまでいた男のことを触れてみる。
「ああ、そういえば彼、留学するんだよ」
「ハァ?!」
「あれ、やっぱり知らなかったんだ。ウィーンにいくんだって」
彼女の報告に少しだけ、寂しさを彼は抱いた。
わかりきっていたことではあるが、彼らには彼らの生活があるし、自分には自分の生活がある。どこか音楽でつながっていると思っていたが―――事実を突きつけられて、寂しい。
「あいつすげーなあ、頑張ってる。まぁ今日は俺も負けねえけどさ!」
「うん、久しぶりに聞けるの楽しみにしてるよ」
「は?お前はどうなんだよ、最近」
「ああ、私も相変わらずだよ」
精一杯全部出しきる。
にこやかに笑ったに「じゃあライバルだな」と翔は立ち上がり、彼女に握手を求めた。自然と彼女もまた、その手をとる。だが、の表情は不思議そうなことこの上なく、少しだけ首を傾げていた。
「……なんだよ?」
「いや、だって、私達は元々ライバルじゃあないの?アイドルになったらもうライバルじゃないかな?」
「ばっか、そんなわけないだろ!俺はお前らにライバル認定されたらますますやる気になるってーの!」
「そっか」
嬉しそうに笑ったに釣られるように翔も笑い返してやった。
この瞬間、この手が離れたらまたお互いにライバルだ。もう一人と会話が交わすことが出来なかったのは残念だが―――音で、彼の門出を祝ってやろう。
後、コンクールの結果は兎も角として、彼「ら」が飛び立っていく姿を来栖翔は見送って、大きく大きく手を振った。
そうして、彼のリ・スタートが始まる。
2012頃