Allegro Cantabile!

今だけのソロ・ステージ

 じっと見つめるの視線が羨ましい、と司は密かに思う。生涯の好敵手と思っている相手の音に心惹かれているのは自分だけではないのを司は勿論知っている。分かっている。例えば望月玲央。彼のように一真と対等なライバルかと聞かれれば自分はまだ彼に勝てることはない。
 けれど、少しだけ、いいなあ、と思うのだ。

 は司の音を聞いてその表情を浮かべることはない。彼女は司の音を褒めてくれるし、司の音を好きだと言う。
 の平坦で凡庸で、代わり映えしない音と比較しての発言なのかもしれないし、純粋に司の音を褒めているのかもしれない。だが、それは一真の音を聞くときの瞳とは違う。目を開いて、口をぎゅっと閉じ、どんな一拍すら逃さないように彼女は一真を見つめている。

 それは、彼女が一真を「尊敬」しているからなのだろう。一真の音に耐え切れなくなり膝を屈する人間たちの横でじっと聞き耐えていた西野。
 一真の音を、悪魔のヴァイオリニストと言われながらも聞き尽くした
 ―― それは「恋」にも似た感情なのだろう。
 勿論当人たちにその感情があるのかどうかは、司は忍者だから分かっている。少なからず藤重一真はのことを好きか嫌いかと聞かれればノーコメント、恋愛ではないだろうし、彼女もしかり。

 自分だって、そうなくせに。妙に癪な話で。司にとって藤重一真が目標でライバルであるのと同じようににとって藤重一真は彼女の正反対の位置に立つ、いわば鏡のようなものだ。司には分かるがそれでも心はあまり納得がいかないのである。嫉妬めいたような、でも恋愛でもないような曖昧すぎる行場のない感情が渦を巻く。



 別の日、司は屋根の上からいつも通り周囲を見渡していた。いつもより目覚めがよく、鍛錬をした後のことだ。
 彼は音を聞いた。ヴァイオリンの音だ。人よりも良い耳を持った彼の特徴か顔を上げると雷神丸が足元をぐるぐると彼と同じく音に反応して動きまわる。
 午前4時30分。ここからそう離れていない距離で、人が寝静まっている時間に曲が聞こえてくる。
 顔を上げる動作だけでも消え入りそうな音に反射的に彼は動き出す。その音の主が誰だということはすでにわかっていたが、それでも「なぜここに」だとか「気のせいではなかった時の対処法」をぐるぐると気持ちを抱えつつ、彼は走る。


 そこで少しばかり司は目を見張った。消え入りそうな音の主はやはりだ。離れといえ学校内で弾いているの音は随分とのびのびとしていた。
 いつもソロで苦手だとか様々なことを彼女は卑下するように口にしていたが、何てことのない、自由で、明るくて、を形容するに相応しい伸びやかな音だ。少なからず――普段聞いている音とは違う。その音は教科書通りではない。譜面の通りのありきたりな解釈でもない。
 楽譜を見ないということは譜読みの段階はとうに終え、解釈を加えながらの練習なのだろうか。時々D線を抑える手がスタッカートで震えている。


「……シャバいなあ、


 司の存在に彼女は気づいていない。自分の音を否定し目を閉じ、凡庸だとだれでもない自分自身が繰り返して押さえつけて、そして彼女は音を作り出しているのだと、司は改めて感じる。一真がに苛立ちをむき出しにして指摘した通りのことだ。
 けれど、彼にはどうすることも出来ない。
 一真のように音で示すことも出来なければ、マルコのように見守る事もできない。玲央のように練習に明け暮れる同志として背中を押すこともない。ジャンのように普通について一緒に考えることもない。彼らと自分では、方向性が違う。

 じい、と見つめていると彼女と視線があった。驚いているの表情を見るとすこしばかり安堵する。

「おはよう。……何してんの?」
「おう、音がしたからきた!朝練か?」
「まあ、そんなところ」

 もう終わったんだけどね、からりと笑ったは弦を置いた。楽譜は譜面台に鎮座している。
 司は窓から入ると、のヴァイオリンへ視線を送る。司の黒いヴァイオリンとも、一真のストラディバリウスとも違うものだ。

「あのさぁ、
「んー?」
「……今日先生からおやつもらうんだ、お前の分とっとくからな!」

 は驚いて司を見やる。司は胸を張っているし、そもそも彼は嘘偽りを好まないまっすぐな性格をしている。食い意地が張っているといっても、それはそれこれはこれ、といったところか。瑛太あたりに取られないかな、と彩香は苦笑した。……それだけ、西野の菓子が美味だということだろう。

「おいらが死守する!に渡す任務だからな」
「任務」
「おう、任務」

任務を最優先事項としてあげる彼に、は小さく頷き返した。報酬に何かないかと鞄をあけ探す。ペンケース、音楽機器、ハンドクリーム…次々と荷物の中から出てくるなかで、ようやくポーチを取り出した。

「……はい、手」
「おう!」

 まるでお手のように両手を差し出した司の手のひらにくるりと包装されたキャンディを3つほど落とす。いちごみるくと書かれたキャンディに、パイナップルの輪切りのようなキャンディ。そしてペットボトルのサイダーのような絵がプリントされたあめ玉。

「授業ないし、後で先生に頼んでアップルパイ作ってもらうから、とりあえず今回はその飴でいいかな」
「……うーん、飴かあ。まぁアップルパイが付くならいいかぁ」

 かぼちゃパイがいいんだけど、まぁ。
 うーん、でもなぁ。
 いくつか少し唸る180センチメール強の青年を微笑ましくは見ていたが、ふとその手を頭に触れた。まるで犬にするように、よしよしと撫でる。

「なんだよ~も~」
「うーん、なんだろう、見てて元気もらったから」

 ありがとう、司君。
 彼女は、随分と柔らかく笑う。先ほどの堂々とした音とも、不安定な音とも違うに、ぐらりと視界がゆがむのを司は感じた。無理して笑っているのではないか。気遣われているのではないか、と見据えてみるが彼女は何も言わない。よしよしと撫でていた手を離してヴァイオリンの音を思い出すように口ずさむ。

「あのさ、
「何?」
「…………が辛い時はおいら、気づくからな」
「どういうこと?」

 努力するのは、当たり前だときっと藤重は言うだろう。そしてそれと同じことを、きっと彼女がいうことを司は知っている。でも、それだけだと彼の中では納得しかねた。頭ではわかっても、それでもつらそうに弾くのは嫌なのだ。


の音ぐらい、すぐおいらの耳がかきわけるんだぜ、なんてったっておいらは忍者だからな」
「…………私の気持ちもわかっちゃうんだ?すごいね」
「おう、おいらは忍者だから、のポジティブフェイスぐらいわかるんだ」
「……ポーカー・フェイスね」

 多分ポジティブフェイスだときっととてもいいことじゃあないかな。
 西野ほど元気がいいわけではないが、それとなくツッコミを入れては自身のヴァイオリンに目を落とす。
 そういえば、司は初めてあった時からのことを見据えることが多かった。真っ直ぐで、疑わない、実直な少年。それが朝比奈司という少年だ。
 同じヴァイオリニストとして、目指す場所は違えど彼の音をは評価しているし彼の努力も知っている。……逆はないと思っていただけに、驚いた。

「よく分かるね、でも私の音」
の音ならいつだって分かるぞ」
「忍者だから?」
「それもある!」

 後はおいらがの音が好きだからだ。どきっぱりと言い放った司に、は頬が少しだけ熱を帯びるのを感じた。彼は直接的だ。直球勝負で言葉にする優しさを持っている。……そしてそれは時として、を翻弄するには十分すぎる。

「……ありがとう」
「?ほんとのことだぞ!信じてないだろ、
「や、そんなことは」
「おいらはがソロで弾いてるのだって好きだし、合奏でカバーしてるのだって好きだから、だからあんまり自分の音悪く言うなよな」

 藤重はああ言うけど、の、例えばいまみたいな音、おいらは好きだ。
 好きという言葉を簡単に言う司に、段々は羞恥心が生まれ、ありがとう、という言葉を出しながら顔を抑えた。熱は顔だけではなく、首あたりにまで広がって、喉のあたりが少し酸っぱい。

「なあ、
「うん?」
「そのうち、合奏してくれよ、おいらと」

 は虚を突かれ、思わずへ、と間抜けな声を上げた。
 そんなことを言われるとは思っていなかったのもある。司はいつもの明るさを隠し真面目な顔で彼女を見ている。

「私でいいの」
がいい」
「…………それは、ありがとう」
「なら、いいってことだな!よーし、おいらも練習してくる!曲決まったら教えてくれよな!練習邪魔して悪かったな、そんじゃ!」

 捲し立てるように話、そのまま司は姿を消した。忍者の技の1つだろうか。煙に何度か目をこすり、は窓を開ける。…………朝焼けが、見えた。
 東雲は紫苑色が赤と交じり合い、鮮やかな朝焼けの色に変わっていく。まだ日の出前であったことをは思い出して驚いたものだ。どのくらい練習していたのかは覚えていない。どこから司が来たのかも、話し込んでいたのかも。
そしてその空の色は、司の燃えるように赤い髪によく似ている赤だ。眩しさに目を細めていたが、彼女ははたっと現実に気づいた。

「………あっ、戻らなきゃ」

 朝練だと開けてもらっていたが、朝食や朝の点呼、在学生の邪魔にならない程度として許されたことだ。は慌てて譜面台から楽譜を戻し、譜面台をもとの定位置に戻すとヴァイオリンを他のものよりほんの少し丁寧にケースに仕舞った。
 朝焼けで眩しさから目を細めつつも、扉をあけ、そして鍵をかけ、歩き出した。


「好き、か」

 まだ、胸の高鳴りは止まない。
 彼と重なった音を想像して―――同時に、藤重一真の指摘を彼女は改めて自覚した。

「うん、がんばろう」

 また1つ、新しい目標が彼女の中で生まれたから。
 ……勿論その目標を司や一真は知ることもない。そっと、静かに、彼女の胸の中だけで芽吹き始める。


 ―――朝食時、だらしなくワルサイユのロッキングチェアに腰掛け居眠りをするの姿があり…………無論、ただで済むわけもなく、きっちりと瑛太の悪戯の対象にされた。
 なお、同日のティータイムに出たアップルパイを嬉しそうに頬張る司を目撃したマルコが爽やかに「青春青春」と頷いたのは、現時刻から数刻後の事である。


2013.09.18

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