アレクセイという男が彼女の元を訪れたのは、彼女がクラシックコンクールに参加し、いつもと変わらぬ絶対的な結果を受けた上で、音楽教室に失意の中「やってられるかばかやろー」とヴァイオリンをおき、気分転換でヴィオラをお遊びで弾いた時のことだ。
特別何かを受けてヴィオラを弾いたわけではない。
ヴァイオリンとヴィオラの形式はほぼ似ていたし、彼女にとってヴァイオリンで嫌なことが会った時よくよく息抜きがてらヴィオラを弾いている。それだけのことだった。
何故あの時、アレクセイがやってきたのか。それは今でも分からない。彼がこの大会の審査員である人間と知り合いだったから、この教室がそのコンクール会場から近かったから。理由はいくらでも並べようと思えば並べられるが、結局のところ分からずじまいだ。
天宮静は当時大変困惑した彼女に対して「先生はそういう人だから」と一言だけ述べるだけだった。
そうして、アレクセイは彼女に紳士的に、穏やかに、そして非道なことを述べた。
アナタの音ではなにも惹かれるものがない。ヴァイオリンではね。
「……どういうことですか?」
案の定彼女はその時、彼の言葉に惑わされた。そして、花を散らされた。小さい中で作り上げた彼女の演奏家としての、ヴァイオリニストとしての花だった。
…彼の勧誘は甘美で魅力的なものに聞こえる。ヴァイオリンからヴィオラに転向すれば一年で結果が出せる。
君の実力なら。君なら。
誰かに必要とされる音楽となるだろう。
その言葉に、彼女はその手を、そっとアレクセイに乗せた。これは彼女がまだ義務教育期間の時の話だ。
そこから彼は世界的なコンクールに向けて渡航し、彼女は一時函館にいたもののすぐに呼びつけられ手渡されたヴィオラで各国を回る羽目になった。
金色に輝いていたヴァイオリンの弦は今はどうしているのだろう。あの時奏でていた彼らはどうしているのだろう。そんな曖昧な記憶。
ただ、彼らの音を、彼女は忘れられないでいる。
全ては彼女にとっては「これでよかったのか」という迷いが断続的に続けられている状況の中、思い出であるにもかかわらず、アレクセイの言葉は色褪せることさえ許しては居ない。
「小日向かなで」
その名前に、表情は少し崩れた。
彼女の出会った男……冥加玲士が絶対零度の瞳で彼女のことを唱えていたことは覚えている。
彼女と彼の間の因果めいた関係については、アレクセイが冥加と出会った時のことを聞き流す程度の世間話として言った時に聞いてきりだ。……だが、普段冷静沈着な表情を崩さないこの男が、それだけ感情が揺さぶられているところを見るのはほぼほぼに、稀だった。
「……か。そこに立たれると邪魔だ」
「すみません」
薔薇園で彼女が純白の薔薇を呆けるように見つめていた際のことだ。
めったに此処に来ないであろう冥加が訝しげな表情で彼女を見据えている。
手にはパガニーニの楽譜が納められてた。二歩ほどそこから離れると彼は長い前髪を流して毅然と歩いて行く。真っ白の制服に、黒いシャツは横浜天音の人間の中誰より似合っているのだろうなとはぼんやりと考えた。
「は曖昧にはあ、とだけ返しておいた。管理の行き届いた薔薇達はひっそりと咲き誇り、彼らの心を和ませようとする。
だが、心にはまだどす黒い何かが含まれていた。
アレクセイはの感情をおそらくは見抜いている。その上で彼の側に置かせているのだろう。
随分と性格の悪さが露見するが、彼にとっての基準は音楽であり、にとっても「そうだろうなあ」と溜息と諦めを交えた感情を持っている。
の音は諦めたものが持つ特有の悲壮さ、悲哀さがある。時折他校の人間から「天音の、さんですよね」と目を輝かせた話を聞かされる。からすれば動揺を抑えて物事を対応するが、彼らは「あなたの曲が好きです」と言い放ち、爛々とした表情で去っていく。
何がいいのかなあ、とぼやいたに、氷渡はそんなこと、と否定した。
彼女は孤独であったが、彼女自身が孤独であることを苦しいと考えた試しはなかった。
天上の楽園で音楽だけを奏でることを許された、この場所で彼女が自分自身の立ち位置を確立することは実に安易ではなかった。
アンサンブルに関心があったかと言われれば「ヴィオラ」という楽器の重要性は特にアンサンブルで輝くというのが彼女の解釈であった。メンバーに選出されたのは冥加がこの学校の実権を得た後、ともに来いと言われたからだろうとも考えている。
は優れたヴァイオリニストではなかったが、ヴィオラ奏者としては追随を許さない女だ。
だが、アレクセイはコンクールに出ることを許さない。手渡された資料と彼の指示に彼女は冷め切った表情で御影に問う。真意は?意図は?答えはない。冥加に伝えれば彼は顔を歪めてそうか、とだけ言い返した。彼女は次の言葉がないことを知り、背を向ける。
「」
「はい?」
「………いや」
言いかけた言葉は何か、彼女はわからない。ただ、顔を上げて冥加に告げる。私は私の為すべき事をします、と。
「あ」
「なんだ」
「……金星が」
窓の向こうに見えた狭い夕空に輝いている金星に、不思議と冥加は目を細めた。
先ほどまでの青空はすでに身を潜めている。赤紫の空は血のようにも見えなくもない。はアレクセイに会いに行った。
物好きな女だ、と吐き捨てるように言えば「そうでしょうね」とありきたり極まりない言葉で彼女は笑い――そうしてきれいなまでの一礼をしてみせた。
「コンクール、私は出れないそうです」
「……ふん、あの男らしいやり口だ」
「……でしょうね」
今一度、彼女はうっすらと笑った。同じ笑い方で、冥加はのこういった諦めた表情には苛立ちをいつも覚えるのだが、彼女はどうやらそれに気づいているのか「すみません」とすぐに肩を落とした。
「すみません、七海に呼ばれているので失礼します」
「ああ」
そうして、彼女は背を向ける。残された冥加は彼女を見送る。真っ白のジャケットがふわりと踵を返したからか揺れる。彼女の髪の毛もつられるようにふわりと浮いた。
「――ふん」
彼は彼女を見送って、そうして理事長席に座る。大きなその椅子の背もたれによりかかり、ぼんやりと考える。ヴァイオリンが弾きたい。と。コンクールに出れません、といったあの女が自分のヴァイオリンの音を聞いていることなど分かっている。なぜあそこまで固執するかは分からないが――冥加は鎮魂歌を無性に弾きたくて弾きたくて、パガニーニの楽譜を持っていたその手をばさりと広げそのまま背もたれに後ろ頭をごつ、とぶつけてやった。