この世界というものは中々均一に、平均的にはできていないのだということをは知っている。
人にそれぞれ運命の人がいるのであれば、そんな淡い感情を人に対して持っているとは思っていない。
羨ましいな、とは考える。
何が、と氷渡は彼女のぼやきに気づいたのか足を止めて尋ね返した。
彼女の片手に大切そうに抱えられたヴィオラは音を奏でることを止めて沈黙し続けている。
それにしても、アンニュイな雰囲気がよくよくには似合っている。
伏目がちな瞳は彼女の物憂げさがさらに際立っているように見えた。
その昔ヴァイオリニストとしてひたすらヴァイオリンに明け暮れていた彼女の人生について、氷渡は……というか、人々は知っている。
どこにでもいる、平凡な無名のヴァイオリニスト。平凡で色褪せた音を奏でるヴァイオリニスト。
…………それがどうして、今ここでヴィオラに転向し才能を発揮しているのか。
「ヴィオラの第一人者なんてものはいない。それほどの腕があればヴァイオリンへ鞍替えしてしまう」
そんなジョークが今でも残っているほどに彼らの扱いは悪いものであった。
は窓の向こうに見えるこの学校の絶対的支配者である男を見て、目を閉じた。
「冥加部長か。懲りねえな、お前」
というヴィオラ奏者が冥加へ淡い感情を寄せていることを氷渡は知っている。
だが、同時に彼女が彼の周りをうろつく人間でもないことも知っていた。理由について知らないままではあったが先日出会った「小日向かなで」という女にいたく動揺している冥加の姿に「これか」と納得もした。
あんなに絶対的な自信を持った男に、あんなに平凡でつまらない女。彼らの間には見えぬ壁、見えぬ溝、入れぬ空間があることを部員である氷渡も、も知った。のゆえに彼に近づきすぎない傾向に全ての線が結びつき、氷渡は馬鹿だな、と内心彼女に呆れたものである。
冥加玲士の、小日向かなでにおける執着は尋常たるものではない。そんなこと、知っている。
「運命の女なんだって」
何を言い出しているのか分からず氷渡は彼女を凝視した。
は表情を少しも変えずに窓の向こうでピアノを奏でている男をじっと見ている。恋情と憐憫と哀愁が織り交ざった複雑な色をしている瞳はそれでもなお、冥加玲士だけを見据えていた。
熱情もこもったそれを「恋」であるということに氷渡はつくづく疑問であった言葉を彼女に投げつけた。
「なんでお前、ヴァイオリンやめたの」
そんなに冥加部長の音が好きなら、辞めなければよかったのに。
その問いに彼女は答えなかった。

それから、コンクールに七海が選ばれて氷渡が精神的に追いやられていく姿をは何とも言えぬ気持ちで見つめていた。その姿は痛ましく、そして同時に自分と重なって見えた。彼とすれ違う際に「氷渡」と彼の名前を読んだが彼はに一瞥もくれることもなく虚ろな瞳でよろよろと歩き出していってしまった。
……彼女の行き場のない手は拳に変えられて、スカートのあたりでぐっと、さらに強く握られる。
そこから、彼女は胸を張って歩き出した。
「冥加部長」
扉を開けて、彼の前に立つ。彼は相変わらずの仏頂面であった。絶対零度なんてよく言ったものである。
は彼を見据えたまま、言い返す。
「氷渡のことですが」
「今後は七海に変更する。、楽譜を渡しておけ」
彼女の質問はあっさりと彼にはねつけられた。だがそれは当たり前でそうだろうと予想できたことでありは冥加を見据え言い返した。
「……それは出来かねます」
己の主張に彼女は自分で驚いた。冥加は驚いていないあたり、さすがというべきか否か。
「理事長の考えもおありになることは知ってます」
「分かっているのなら黙っていろ」
「しかし」
「くどい」
彼はその場を去ろうと立ち上がろうとするので、は重々しい唇をゆっくりと開き「小日向さんに勝つためには、彼ではダメな理由があるのですか」と聞き返す。
小日向かなで、という単語に冥加がたじろいだのを予想して、は彼を見据える。
「七海は頭角を現し始めています。けれど、氷渡が慢心していたとは思えません。……部長、ご説明を」
好奇心は猫をも殺す。そんなことわざがあることを知っていた。
そして、彼女が行動に出ていることを氷渡は知る由もないだろう。知らなくていい。知らないほうが幸せだ。
楽譜ケースは彼女のカバンの中で小さく小刻みに揺れていた。
冥加は、そこでようやくといっていいほどにしてようやく、を見た。
「……理事長の決定だ。これ以上言わせるな」
「……分かりました」
彼女は頭を垂れ、そうして部屋を後にした。
取り残された冥加は彼女の反抗的意見に驚き、そして「小日向かなで」に動揺した自分を嘲笑した。
「つくづく、忌々しい女よ」
まで変えたか。そんな彼の言葉は、には届いていない。
従順で、それでいて哀愁を持った彼女が小日向の明るさに引っ張り込まれるようにして冥加に何かを意見する。……今までに、なかった変化だ。その変化を彼は意外だと思っていたし、同時にそれを悪くないと感じた。

支倉仁亜は、その日横浜天音が近い山下公園の前を通り過ぎていた。夕焼けに染まる世界で、ぽつんと見覚えのある白と紫の制服姿が目につく。
「誰かと思えば、じゃあないか」
「……支倉さん。こんにちは。奇遇ですね」
彼女は天音室内楽部の1人であることぐらいニアにとってみれば情報収集のひとつ、他愛ないことである。
毅然とした態度とあまり口数が多い方ではない彼女が時折見せる表情は何かいつも諦めが見え隠れしている。だというのに音楽への固執からか、必死にしがみついている姿は滑稽であり同時に愛しい。
話題に事欠かない天音の女生徒。色鮮やかな青臭い日々を送る彼らと真逆に居るような彼女もまた、そんな青臭い日々に無自覚に身を投じているようだ。
小日向かなでの「友人」に上げられている彼女はヴィオラケースを足元に置いて、手すりに身を預け虚ろな視線のまま遠くを見ていた。
「なんだなんだ、アンニュイな雰囲気じゃないか。ついに振られたか」
「いえ」
アレクセイに誘われ、特待生としてこの学校に身を寄せたのは随分と前のことだ。彼の言葉に乗せられ、ヴァイオリンを捨ててヴィオラに転向し、世界が表情を変えたその瞬間をニアは目にしているし、もまた彼女にはいくつか言葉を返している。
アレクセイが誘ったこの学校。音楽への愛を捨て、ヴァイオリンへの想いを断ち切って、そうして彼女は合理性と力でヴィオラを手にしている。
それは彼女が彼の秘蔵っ子たちである冥加や天宮との出会いにも繋がっていた。そこで彼女は魅入られたように冥加の音に、彼の危うさに心惹かれた。
しかしニアは顔を渋めて言葉を返す。
「君は随分と男の趣味が悪いな」
あの男は小日向しかみていないじゃないか。そう聞き返したニアに、は頷き返す。
「冥加部長にとって、彼女は運命の人ですから」
彼女は自嘲するわけでもなく、ただ朗々と事実を事実として語っている。その姿にニアは首を傾げ尋ね返す。
「だから、潔く身を引くと?」
「それが出来たら、苦労しません」
冥加部長にとって、周りの女は意味をなさない。
御影も、も、何だってそうだ。大切なのは妹と、小日向かなでへの怨恨、憎悪。
奮い立たせる、導いて行くように彼は真っ直ぐ、小日向かなでだけを見つめているから、の揺れている感情も気づくことはない。
天宮静は言う。「冥加のように激しい感情と、さんの気持ちの動き方は似ていないのに君たちは似たようなタイミングで、揃って顔に出すんだね」と。
は彼の言葉が理解できない。氷渡曰く、は冥加部長しかみていない、のだという。それはそうだろう、彼の絶対的な音は引きずり込ませる何かがある。
彼女の悲しみも、喜びも、そんな些細な感情なんてすべて飲み込んでしまう、むせび泣くような音。天使からの祝福を受けたかのような明るい音。彼は技術者としても、表現者としても孤高であり同時に孤独なようには思っていた。
「そういえば、君は以前小日向かなでになりたかった、と呟いていたけれど」
「その話をまたしますか」
戯言ですよ。は視線をそらし、己のヴィオラケースへ目をやる。
「彼女の才能、立場が羨ましかっただけです。諦めない心意気も。私にはできないことばかり」
アレクセイのへの言葉が蘇る。
― 。アナタでは、ヴァイオリンで道は開けない。アナタのやるべき道は、そこではない。
― ヴァイオリンで、冥加君に勝てる日が来ないことも分かっているでしょう。
― アナタのやるべきことは、もうお分かりでしょう。
痛みで、そっと目を閉じた。ヴァイオリンから離れる痛みを思い出し、それがまだ今も心の中で大きな乱れを生じさせている。アレクセイの言葉に惑わされ、そうして温室の中の花たちとともに彼女はこの学校にやってきた。
「冥加さんは、私の悩みなど気にも留めないでしょう」
それでいい、前しか向かない人ですから。
己の才能を諦めた彼女にかける言葉を彼は持たないだろう。
「ヴィオラも、好きです。だからこそ、逃げの言葉でヴィオラに縋り付く自分が嫌いです」
夕焼けは沈む。落日は宵闇への誘い。
ニアは夕焼けに染まった彼女の姿をカメラに撮った上で「君は小日向と逆だな」と言い切った。
「その言葉の全てを言えばいいじゃないか」
「……好きな人の前で見栄を張りたいのは、世の常ですよ」
「違いない」
君の顔は恋をしているものだ。
君の音は恋をしながら諦めようと言い聞かせているものだ。
けれど君はそれはできない。なぜなら君はあの男の孤独をみてしまったから。
「小日向が彼にとって救いの光であって欲しいんだろう?」
「随分と詩人ですね」
同時に迷っている自分の指針として背中を押して欲しいことも。
けれど一抹だけ、彼らの向き合う未来を見ることで自分の感情が行き場もなく崩れることをは知っている。小日向かなでという女は女神のような慈愛を持った、慈悲深い人間だ。だがその優しさに焦がれる一方でひっそりと闇の中で目を閉じていた彼女にはあまりにも鮮明すぎる明るさが、彼女が低空飛行を続けるまやかしの翼を溶かして落とそうとする。
イカロスのようだ。自分を愚かであると失笑しながら、それでも空に憧れるの表情は、音は、悲哀に満ち溢れながら力強さを持っていた。
ニアはゆっくりと口を開く。
「君はヴァイオリンロマンスを知っているかい?うちの高校に伝わる伝説さ」
「いえ」
彼女がかいつまんだ話をすると、は笑ってそれじゃあそれは、小日向さんに叶えてもらいたいですね、と呟いた。ヴァイオリン奏者である彼女が奏でるヴァイオリン・ロマンス。それはどこに答えがあるのか――彼女はまだ答えが見いだせていない。小日向かなでは彼女の周りを惑星のように出会い、惹かれている男たちがいる。天音の男たちを見た上で「彼女なら」救えるのかもしれない。そう彼女は唱えた。
そんなに近づく影にニアは悟られないように肩を落とした。
に男の趣味を問うたが、実際問題天音に集う男たちにまともな人間などいやしない。
マエストロフィールドという特殊な音楽の才と引き換えに何かを失ったような、どうしようもない音楽馬鹿ばかりだ。
「では、私はそろそろ失礼しようか。お迎えのようだよ」
「……お迎え?」
彼女の問いを無視するように、彼女から少し離れたところでにいた冥加へニアは視線を送る。
はえ、と聞き返すものの、歩き出す冥加に整理がつかないまま、ヴィオラケースを持ち、ニアに会釈すると追いかけ出した。
「難儀なやつだ」
救われたい、と思いながら、男を救って欲しいと悩み、形になることを嫉妬している。
三角関係に気づいているのは当人ばかりで、冥加も、小日向かなでもそんな感情は見えていないのだ。けれど、彼女自身も気づいていない感情がある。ヴァイオリンから離れられないという。けれど。けれど。
「ヴィオラを愛していないなら、あんな風には置かないと思うがね」
そんな言葉は、夜空にかき消えた。幾数の次元が重なりあう宇宙の中で、彼女は観測を続ける。
気づいて。気づかないで。
助けて。けれど、彼を救って。
そんな二律背反を繰り返しながら、天上の音楽に焦がれるように彼女はそのヴィオラに思いを乗せる。その音は、どこまでも悲しく、どこまでも優しかった。